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2017年10月23日月曜日

システムのゼロ度としての〈作家=女〉

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

⋯⋯⋯⋯

上に見たように、ラカン派ではなくてもしばしば語られてきた「言説行為の主体/言説内容の主体」ーー直接的なラカン派の起源は、フロイトの《私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》(『精神分析入門』)であるーーをめぐるジジェクを記述をまず抜き出す。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

「私はあなたを愛しています」をめぐっては、「私は嘘をついている」にて引用したラカンのセミネール9の次の箇所を抜き出しておこう。

…教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら⋯⋯まずそれは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味がある。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(ラカン、S9、15 Novembre 1961)

かつまたラカンは「言表内容の主体 sujet de l'énoncé 」と「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」が一致している思い込んでいる言説を、《私は私自身の主人 m'être à moi même》言説、《「私」支配 je-cratie》と呼んでいる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。(Lacan, S20, 13 Février 1973ーー資本の言説と〈私〉支配の言説)

さてだがいまは(直接的には)その話題ではない。冒頭の文に前段に書かれたジジェクの叙述がーーいままで何度か引用しているがいくらか訳語を変えてここに掲げるーー、わたくしにはすこぶる面白い。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

(⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

主体の解任をめぐるラカン自身の言葉は、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見てもらうことことにして、ここではラカンの四つの言説の図から分析の言説の図をまず掲げる。




そしてベルギーのラカン派臨床家による分析の言説の注釈ーーひとつの注釈でありこれが全てではないーーを掲げる(参照:基本版:「四つの言説 quatre discours」)。

分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: 「享楽の私« Je » de la jouissance」を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p.25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての地位を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

ーーそれぞれのマテーム、a、$、S2、S1が簡潔に説明されている。


⋯⋯⋯⋯

さてジジェクに戻る。彼が指摘するように、女は(ときに)対象aとして(あるいは分析家として)機能するのである。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。(ジジェク、2012)

とはいえ、もっとも注意すべきなのは、対象aの両義性である。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

女は男にとって幻想的囮/スクリーンとしての対象aとして機能している場合が多いだろう。だが肝腎なのは後者の空虚である。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

原対象aとは、穴Ⱥのことである(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。そして穴とは、欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)。

ラカンは「カントとサド」(1963)において、《享楽が純化されたとき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる(形態 forme 自体になる)》としているが、同時期のセミネール不安でも《pur objet, fétiche noir. 純粋対象、黒いフェティッシュ》とある。これはブラックホールのことだろう。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

バルトが次のように言うとき、作家とは読者にとって穴として機能すべきだと、彼は考えていると捉えうる。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

ーー「システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes」 とは、もちろんラカンの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」=対象aである。

そしてときとして、女がこのシミとして機能するのは、たとえば安吾が「ジロリの女」で叙述した文が示している。

女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。(坂口安吾「ジロリの女」)

安吾は女に次のように語らせているーーひょっとして「魂の孤独」を語り続けた安吾の自己分析でありうるーー。

彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

分析家の言説とは、精神分析臨床だけの話と考えてしまいがちだが、人が、理想を語る夫に直面した妻のようにーー沈黙で他者に対応すれば、分析の言説と同じ機能を生む場合がある。そしてそれはまず、他者の《言説のヒステリー化 hystérisation du discours》(S17)を促す。

ここでのヒステリーとは巷間に流通する通念としてのヒステリーではない。たとえば症状なきヒステリーでありうる。《私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだよ  je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme〉(Lacan, S24、1976)

金井美恵子は次のように言っている。

中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(『小説論』)

すぐれた小説家の作品の多くは、たしかに、システムの染み、あるいは穴としての対象a、ジジェクのいう〈女〉として機能しているはずである(もちろん読み手の資質によるが)。

「男の言葉を女の言葉に/近づけることを考えなければならない」(西脇順三郎)

ーーとはいえ、そもそもここまでの記述自体が、女にバカにされうることは十分承知している・・・

おそらく最も肝腎なのは、ドゥルーズのいう「芸術のシーニュ」を創造することなのである。

社交のシーニュの神経的興奮、愛のシーニュの苦悩と不安。感覚的シーニュの異常な歓び(しかし、そこではなお、存在と無との間で存続している矛盾として、不安が現われている)。芸術のシーニュの純粋な歓び。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー社交・愛・感覚・芸術のシーニュ」)

ああ、《何もかもつまらんという言葉が/坦々麺をたべてる口から出てきた》(谷川俊太郎)