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2017年10月7日土曜日

私は嘘をついている

人が自らのことを書くとき、わたくしJe は私 moi ではないと言ったのは、ロラン・バルトである(『彼自身』)。moiとはイマジネールな私にすぎない。あるいはこうも言っている、《私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる》(『声の肌理』)。

じっさい、私がもっとも自分の弱みをさらけ出す羽目になるのは、自分の《私的なこと》を口外するときである。弱みと言っても、「スキャンダル」の危険によって、というわけではなく、むしろ、私的なことをしゃべりながら私は自分という想像物をそのもっとも堅い固形で提示してしまうからなのだ。そして想像物とはすなわち他人の捕獲権の支配下にある姿のことである。(『彼自身によるロラン・バルト』ーー僕と私と俺

さらにまたラカン的に言えば、次の通り。

…教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。

デカルトの「省察」の中でさえ、 「我思う」を、彼の言う根源的明証性はなにも保証することできない、 まさに想像的次元でしかないものにする遇有的事柄の多さに驚かされる。

もう一つの意味は「私は考える存在である Je suis un être pensant」である。この場合はもちろん、 「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。

私が「私はひとつの存在です Je suis un être」と言うと、それは「疑いもなく、私は存在にとって本質的な存在である Je suis un être essentiel à l'être, sans doute」ということで、ただのおもいあがりである。(ラカン、セミネールⅨ「同一化」向井雅明試訳からだが、一部変更)

したがって、どうもこのまま誠実に、嘘を書き続けるのは難しい。

……たとえば、カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。そうだ。(作品としての)「私的日記」を正当化する理由は、純粋な意味で、懐古的でさえある意味で、文学的でしかあり得ないだろう。(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収ーー痛みやすい果実

たとえば、あの道祖伸の女は、14歳のとき熱愛した同じ少女であり、その少女は4年後にようやく私を愛するようになって、わたくしは有頂天になった、と書くとする。だが《私は嘘をついている》⋯⋯⋯。なにはともあれ、〈わたくし〉は綿串ある。

…主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる。

Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique ele sujet commence à nous parler de lui (Lacan,Ecrits, 281)

 なぜそうなのか? まずなによりも、言語は 《物の殺害 meurtre de la chose》だからである。あるいは《パロール(語り)を妨害する言語の壁がある Ici c'est un mur de langage qui s'oppose à la parole》 (Ecrits, 282)から。

若きニーチェがすでにこう言っている。

言語はレトリックである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。

Die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen“ (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (ニーチェ、講義録、WS 1874/75)