このため、われわれの知的探求心はひどく弱まってしまった。わたくしの世代は、あの隠された女性の神秘、ようするにおまんこであるが、この女性器を中学生になってもなかなか観察できなかった(もちろん環境によるだろうが)。わたくしの場合はようやく高校生になってから、イクラカ可能になったが、まものをまぢかに眺め、《鋭い欲情に放電しているもので、彼女の内部に深く触れ(た)》(金井美恵子『くずれる水』)のは、大学一年の夏休みに帰省した折であった。
その記念すべき場所の画像が見つかったので、ここに祈りをこめて画像を貼り付ける。
台座があることによって、未熟練者でありながら、それなりの観察が可能になった。あの夏の正午の、森閑としたなかでの蝉の鳴き声まできこえてくる。今思えば、戦死者たちへの供養もしたことになるはずである。
さて以下は核心の論証である。
⋯⋯⋯⋯
「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物は何か」とは、テーベのスフィンクスの名高い謎かけである。
フロイトも「スフィンクスの謎 Das Rätsel der Sphinx」をめぐって書いている。もっともフロイトの問いは、次の図のような話ではまったくない。
むしろ道祖神にかかわる話である。
この名高い唐津の「鏡山道祖神」における核心は、天に伸びあがったほうではなく、下部にある。
すなわち《赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? 》という謎である。
以下、フロイト『性欲論三篇』第二論文「幼児のセクシャリティ Die infantile Sexualität」の「幼児期の性探究 Die infantile Sexualforschung」の段落より
◆知への欲動 Der Wißtrieb
ーーここでフロイトは知的活動のすべての源泉は、この最初期の性的探求欲にある、と言っていることに最大限の注意を払わねばならない。
◆スフィンクスの謎 Das Rätsel der Sphinx.
ーーこの記述から憶測するに、きょうだいが少なくなったことも、知的探求の減退につながっているはずである(ひょっとして女性が男性のくらべて知的探求の弱さがあるとしたら、自らあの神秘を眺めることができるせいではなかろうか・・・)。
なにはともあれ「わたくしはどこからやって来たのか」との問いは、あの道祖神の蝦蟇口にかかわるに決まっているのである。
ここに知的探求の源がある、ということを誰が否定できようか? もし否定する人があるのなら、それは健忘症にかかっているだけである。
フロイトは死の枕元にあったとされる遺稿において、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。
こうして例えば、わが縄文人の土器があまりに明瞭にフロイトを裏付けることが知れる(参照:「縄文ヴァギナデンタータ」)。
肝腎なのはこの穴、そして有歯膣である。学問や芸術などというのは、この蝦蟇口のお上品な昇華に過ぎない。
これこそ《おひんはよいが……》と折口が言っていることである。
小児の性生活が最初の開花に達するのと同じ時期、つまり三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知への欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。この欲動は、本源的な欲動成分 elementaren Triebkomponenten とみなすわけにもゆかず、またセクシャリティSexualität だけに区分することもできない。この活動は一方では独占 Bemächtigung の昇華された仕方 sublimierten Weise に対応し、他方では覗見欲Schaulustのエネルギーを用いて行われる。しかし性生活への関係がとくに重要なのであって、それというのは、小児たちの知への欲動 Wißtrieb は思いもよらないほどに早く、また意想外に激しい仕方で、性的問題 sexuellen Problemen に惹きつけられる、いやそれどころか、おそらくは性的問題によってはじめて目ざめさせられる、ということをわれわれは精神分析によって知ったからなのである。
ーーここでフロイトは知的活動のすべての源泉は、この最初期の性的探求欲にある、と言っていることに最大限の注意を払わねばならない。
◆スフィンクスの謎 Das Rätsel der Sphinx.
小児における探究活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。この探究活動の発達段階において、小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。これは、テーベのスフィンクス thebaische Sphinx がかけた謎の一つの変形である…。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
ーーこの記述から憶測するに、きょうだいが少なくなったことも、知的探求の減退につながっているはずである(ひょっとして女性が男性のくらべて知的探求の弱さがあるとしたら、自らあの神秘を眺めることができるせいではなかろうか・・・)。
なにはともあれ「わたくしはどこからやって来たのか」との問いは、あの道祖神の蝦蟇口にかかわるに決まっているのである。
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳)
ここに知的探求の源がある、ということを誰が否定できようか? もし否定する人があるのなら、それは健忘症にかかっているだけである。
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
フロイトは死の枕元にあったとされる遺稿において、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。
誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
こうして例えば、わが縄文人の土器があまりに明瞭にフロイトを裏付けることが知れる(参照:「縄文ヴァギナデンタータ」)。
肝腎なのはこの穴、そして有歯膣である。学問や芸術などというのは、この蝦蟇口のお上品な昇華に過ぎない。
苦痛防止のもう一つの方法は、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。
けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
これこそ《おひんはよいが……》と折口が言っていることである。
・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。
・鴎外は……現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた。(折口信夫「好惡の論」)
以上、わずかな引用で、血みどろになることの稀な、小者ばかりの世界が訪れたのかを論証することができた。