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2017年11月9日木曜日

昇華という症状

症状はすべて不安を避けるために形成される。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)

そして症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義語であり、(危険な状況、あるいはエス Es・欲動過程 Triebvorganges に対する)防衛過程 Abwehrvorgang にかかわると、フロイトは記している。


ラカンは、芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(科学)は、人間の昇華の三様式である。[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science](ラカン、S7、03 Février 1960)と言っている。

人は、 身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)に圧倒される不安、性的非関係 non-rapport sexuel」 にかかわる不安に対する防衛のために症状を形成する。芸術も宗教も科学も昇華という症状である、というのがフロイト・ラカン派の考え方である(参照:性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel)。


ミレールが次のように言っているのは、その意味である。

すべてが見せかけ(仮象 semblant)ではない。ひとつの現実界がある。社会的つながりの現実界は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界は話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。

象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、性的非関係という現実界に応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER


欲動の現実界も性関係の不在も、何よりもまず「性愛」にかかわるとしてよい。

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。

・愛は転移 transfert である。

・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』)

そして、根源的な愛の対象の「置き換え déplacement」とは、代理形成、あるいは昇華のことである。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a (objets a primordiaux) の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

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さて中井久夫の「昇華」をめぐる二つの文を抜き出す。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


次にフロイトの昇華をめぐる叙述を掲げる(やや長いのでパラグラフ分けをして小題をつけた)。

ーー中井久夫の文に《サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではない》とあったが、フロイトは昇華をそれほど讃美しているわけではないのが分かるだろう。

【人生の目的とは?】
……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福 Glück であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福 Glück」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。(……)

【われわれが幸福である可能性の制約】
厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられ蓄えられていた欲求 Bedürfnisse が急に満足させられるところに生まれるもので、その性質上、挿話(エピソード episodisches)的な現象としてしか存在しない。快原理が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しかい与えられないのである。人間の心理機構そのものが、状態というものからはたいして快を与えられず、対照(Kontrast)によってしか強烈な快を味わいえないように作られているのだ。つまり、われわれが幸福でありうる可能性は、すでにわれわれの心理機構によって制約されているのである。


【三つの不幸の可能性】
しかも皮肉なことに、不幸を経験するのははるかに簡単だ。そうして苦難の原因は三つある。第一は自分自身の肉体――結局は死滅するよう運命うけられていて、警報として役立つため苦痛や不安をすら欠くことのできない自分自身の肉体――であり、第二は、われわれにたいし、破壊的で無慈悲な圧倒的な力をもって荒れ狂うことにある外界であり、第三は、他人との人間関係である。この最後の原因から生まれる苦難は、おそらく、他のあらゆる苦難にもましてわれわれには苦痛と感ぜられる。この種の苦難も、他の原因から生ずる苦難に劣らず宿命的で、どうにも避けようのないものであるかもしれないにもかかわらず、とかくわれわれは、いわばそれを余計なおまけのように考えがちである。(……)


【不幸対策:孤独・麻薬・ヨガ修行等】
人間関係が原因で生まれることのある苦痛にたいして身を守るいちばん手っとり早い方法は、すすんで孤独を守ること、ほかの人間との関係を断つことである。当然ながら、この方法によって手に入れる幸福は、平安の幸福である。(……)

もちろん、これと違った、もっとよい方法もある。すなわち、人類社会の一員として、科学が生んだ技術の力を借り、自然を攻撃する態度へと移行し、自然を人類の意志に隷属させるのである。その場合には、万人とともに万人の幸福のために働くことになる。しかし苦難を防ぐ方法としていちばん興味深いのは、自分の身体組織を変えてしまおうとする試みである。あらゆる苦難も所詮は感覚以外の何物でもなく、われわれがそれを感ずるかぎりにおいてしか存在しないのであり、われわれがそれを感ずるというのも、われわれの身体組織に備わっているある種の装置のせいにすぎないのだから。

身体組織を変えてしまおうとするこの試みのうち、もっとも野蛮かつもっとも効果的な方法は、化学的な方法、つまり中毒である。(……)幸福を獲得し悲惨を避けるための戦いでの興奮剤の効果は一種の恩恵として高く評価され、人類は、個人としても集団としても、これら興奮剤に、自分のリビドーの管理配分体制内における確固とした地位を認めている。興奮剤は、直接快感を供給してくれるだけではなく、われわれが希求してやまない外界からの独立をも部分的には手を入れさせてくれる。(……)

けれども、われわれの心理機構は複雑であるから、これを左右する方法は、他にもまだたくさんある。欲動満足 Triebbefriedigung がわれわれを幸福にしてくれるのと反対に、外界の事情によって飢えなえればならなかったり、欲求 Bedürfnisse を充分に満たすことができない場合は激しい苦痛の原因になる。

そこで、この欲動の動き Triebregungen に働きかけることによって苦痛の一端を免れることができるのではないかという希望が生まれる。この種の苦痛防止法は、もはや感覚器官そのものに手をつけるのではなく、欲求 Bedürfnisse が生まれる内的源泉を制御しようとするのである。それが極端に走ると、東洋の哲学の教えやヨガ修業の実践からわかるとおり、欲動 Triebe を全部殺してしまう。これが成功すると、もちろんその他の活動もすべて同時に停止され(人生も犠牲にされ)るわけで、方法こそ違え、手に入るのはこれまた平安の幸福に他ならない。


【常軌を逸した衝動のもつ抗しがたい魅力】
欲動生活 Trieblebens の制御だけを目差す場合も、これと同じ方法によるが、目標はそれほど極端ではなくなる。そして主導権は、現実原則に屈服した高次の心理法廷が握ることになる。この場合には、欲動を満足させようとする意図はけっして放棄されたわけではないが、ただ、制御された欲動のほうが、不羈奔放な欲動よりは、不満足に終わった場合の苦痛が少ない点を利用して、苦痛をある程度防止しようというのだ。そのかわり、享受可能性 Genußmöglichkeiten の低下は避けられない。自我に拘束されない荒々しい欲動の動きungebändigten Triebregung を堪能させた場合の幸福感は、飼い馴らされた欲動 gezähmten Triebes を堪能させた場合の幸福感とは比較にならないほど強烈である。常軌を逸した衝動 Impulse の持つ抗しがたい魅力はーーいやおそらくは、禁じられたもの一般の持つ魅力もまたーーここにその心理エネルギー管理配分機構上の存在理由を持っているのである。


【学問、芸術という「上品かつ高級な」欲動の昇華】
苦痛防止のもう一つの方法は、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。


【上品かつ高級な欲動昇華の限界】
けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。しかし、この方法の第一の弱点は、それがすべての人間に開放されておらず、ごく少数の人々しか利用できないことである。この方法を使うには、それが有効であるために必要な量ではかならずしもざらにあるとは言えない特殊な素質と才能を持っていなければならない。しかも、そのごく少数の人々も、たとえこの方法によっても、苦痛を完全に免れることはできないのであって、この方法は、運命の矢をすべてはね返す鎧を提供してくれるわけではなく、自分自身の肉体が原因で生まれる苦痛の場合には役に立たないのが通例である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

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※付記

ラカンの《芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(科学)は、人間の昇華の三様式》の注釈として読めるジュパンチッチの論を付記しておく。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDFより。

科学が基盤としているのは、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定である。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。すなわちモノの蜃気楼は、われわれの知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。
宗教が基盤としているのは、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定である。リアルは、不可能かつ禁じられており、超越的で手の届かないものである。
芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。