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2017年11月10日金曜日

浅瀬さえない表面としての女

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

ーー人は誤解してはならない。ニーチェもラカンも、女を崇めているのである。よりよく生きるためには、見せかけ=仮象、すなわち徹底的に「表面に踏みとどまること」が大切なのである。

生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加版)

他方、男はどうか? 愚かな男は「深さ」が好きなのである。

男は愚かにも信じている、象徴的肩書きの「彼岸」、彼自身のなかの「深い」ところに己れの実体、ある隠された秘宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

参照:究極のフェミニスト、ニーチェ

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いま掲げた文には、ラカンの女性の論理と男性の論理が凝縮されている。すなわち例外なしの論理と例外の論理が。


上辺部が男性の論理、下辺部が女性の論理である。この意味合いは「性別化の式と四つの言説の統合の試み」にあるが、ここではより簡潔に記す。

まず三つの文を抜き出す。

①ファルス享楽でないどんな享楽もない il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique(ラカン、S20, 13 Février 1973)
②ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…「身体の享楽 jouissance du corps」 …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、S20、20 Février 1973)
③非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)

ーー②③から分かるように女性の享楽とは身体の享楽である。《女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

そしてファルス享楽の彼岸の「他の享楽」とは、フロイトの快原理の彼岸にかかわる(ファルス享楽とは快原理の此岸にある)。

さてごく標準的に読めば、なによりもまず①と②は矛盾しているように感じるだろう。

①にて「ファルス享楽ではないどんな享楽もない」と言っているのに、②にて「ファルスの彼岸」ーー③にあるように「ファルス享楽の彼岸」と等価であるーーに身体の享楽・女性の享楽があると言っているのだから。

だがこれは「否定の否定」である。

ラカンの否定の否定は、「性別化の式」の女性の側に位置し、非全体 pastout の概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、この non‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体 pas-tout は言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、「一」ではない more than nothing but not something, not Oneということである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ようは女は徹底的に表面(ファルス秩序)に生きるから、表面は非一貫化(非全体化)するのである。他方、男は例外(深さ)に支えられている。ゆえに表面は安定化(普遍化)してしまう。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pastout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊

おわかりだろうか? たぶん簡潔すぎて、おわかりにならないかもしれない。だが長々しく記すと、よりいっそうおわかりにならないようになる筈である。

大切なのは次の二文を眺めることである。

わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。 Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
真理は見せかけの対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

そもそも人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」「仮象の世界 scheinbare Welt」である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

真理とは、現実という見せかけの世界の裂目に過ぎない。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

この裂目が現われるためには仮象に徹しなければならない。そのとき見せかけに穴が空く(アナーキーとは穴空きのことである!)。

これが起るのは女においてである。男においてではない(もちろんここでの男と女は、解剖学的性差、つまりオチンチンの有無とはまったく関係がない。たとえば、すぐれた作家は皆、女である)。

見せかけのなかに穴を空けること、それが現実界である。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体・非一貫性 pas toute)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

・・・というわけだが、ニーチェとラカン両者が《真理とは彷徨える乙女である》と言っているわけで( 参照:真理は女である)、ここでの記述自体を疑わねばならぬ。ホントにこうなんだろうか、と彷徨うことが肝腎である。すぐさまマガオで信ずる阿呆に陥ってはならないのである。

私は相対的 relativementには、マヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S24,17 Mai 1977)

真理とはアリアドネである。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

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◆附記

男でない全ては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体 pas « tout » )のだから、どうして女でない全てが男だというのか?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (ラカン、S19, 10 Mai 1972)

非男は女でありうる(カントの否定判断)。だが非女とは男ではない。女性性内部の裂目、それが非女である(無限判断)。

仮に私が魂について「魂は死なない」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)

[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)