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2017年11月11日土曜日

蓮實重彦の「表象の奈落」とラカン派の「表象の非全体」

浅瀬さえない表面としての女」で記した例外の論理(男性の論理)、例外なしの論理(女性の論理)については、すでに蓮實重彦が繰り返し表現して来ている。

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収、1979)

《「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造》すること、これが例外の論理である。



たとえば、1973年に書かれた小論(ドゥルーズのマゾッホ論訳者解説)に既に、男性の論理である「体系化」に対する「非=全体化の法則」の顕揚がある。

…真理と呼ばれる巨大な疑問符の解明に奉仕する科学的なディスクールが、心理的事象から追放してしまった「精神分析体験」をそっくり救い出すために、「非=排除の法則」と「非=全体化の法則」とを心理学に導入することで、逆に「精神分析学」を科学として確立したのがラカンのフロイディスムの革命であるとするなら、「還る」べきフロイトとは、実はどこにもない場所のことにほかならぬからである。「排除」と「体系化」とは、単一者の表象的な影としてあるあの途方もない疑問符を光源とする、小規模な無数の「なぜ」を脈絡づけるに恰好な、絶句を隠蔽する饒舌に属するものなのだ。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」1973)

ここでの「非=全体化の法則」とは非全体 pastoutの論理のことに他ならない。そして「体系化」とは pourtout である。

ラカンの L'ÉTOURDIT(14 juillet 72、オートルエクリ所収)には、pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない)という表現が現われている。蓮實の言っているのは、まさにこのことである。

そして例外なしの論理に徹するからこそ、表象(象徴界)は非全体化する。

ドゥルーズとガタリとの共著には次のようにある。

オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。

le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

「エディプス的顰め面 grimace œdipienne」とあるが、これはフロイト・ラカン派語彙に変換すれば「ファルス秩序の裂目、象徴秩序の裂目、欲望の裂目、表象の非全体 pastout」のことである。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

非全体の論理ゆえに、表象の非全体が 外立 ex-sist(脱自)する。全体化の論理では表象は安定化してしまう。

《現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization》(ラカン、S20)であり、《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(S22)のである。

最近になってラカン派のムラデン・ドラ―は「表象の非全体」と口に出している。

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。

⋯⋯ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

蓮實重彦は21世紀に入ってからも「表象の奈落」というが、これは「表象の非全体」のことに他ならない。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』2006)

⋯⋯⋯⋯

最後にジジェクによる現実界の定義を掲げておこう。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)