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2018年5月13日日曜日

男は、ファルスを持った女である

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

ーー《ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。》(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan)


ファルスのゲシュタルトが大事だとしてもーー実際、たとえば親たちは、自分の子供のファルスのゲシュタルトを、最近では出産直後どころか母胎内にいる時から調べるように、人はみな男根主義者であるーー、肝腎なのは次のことである。

ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男というものの定義は次のようなものになる――男は「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』2000年)
標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。

しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男は、ファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。

《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant (仮装としての女性性)とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)


ーーラカンは、セミネールⅠで、自我の構成をタマネギに喩えている、《c'est un objet fait comme un oignon》。 すなわち、皮を剥いても剥いても、隠された核を見出せない。ついには無で終わる、と。


わたくしは、ラカンの若い友人だったソレルスの決定的洞察が、最近ようやく分かるようになってきたところである。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創武士訳、邦訳1993年 原著1983年)