女が学問への好みを示すとき、通常、彼女のセクシャリティ Geschlechtlichkeit の何かが具合が悪いのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』144番、1885年)
ーーニーチェはすこし言い過ぎだろうか。いや、そうではない。逆に言い足りないのである。ニーチェの苛烈な「知の欲動」自体、セクシャリティの何かが具合が悪いせいである。
人は男女とも、「性関係はない」というトラウマの防衛のために活動している。これが《我々の言説はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(ジャック=アラン・ミレール « Clinique ironique », 1993)の意味するところである。
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )
ーーより詳しくは、「科学が存在するのは「女というものは存在しない 」からである」を参照されたし。
すなわち、ニーチェも現在の観点から言えば、遠慮深いところがあるのである。
だが次の文はどうか?
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
ラカン派は、100年経って、ようやくこのニーチェに追いついた。
妄想は象徴的なものである。⋯⋯私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…
ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)
あるいは。
わたしにとって今や「仮象 Schein」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
次のラカンの発言の「見せかけsemblant」に「仮象」を代入しよう。事実、独訳では ”semblant” は ”Schein” と訳されている。
真理は見せかけ semblant の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
さらには。
真理が女である die wahrheit ein weib、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)
これは相同的というより、ラカンはパクったのであろう・・・
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体・非一貫性 pas toute)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)