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2018年5月15日火曜日

ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない

次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)

ニーチェがわれわれに問いを投げかけるときには、ほとんどの場合、すでに答えを準備している。

女たちは、その個人的うぬぼれの背後に、常に非個人的侮蔑を抱いている、ーー「女というもの das "Weib"」に対して。(ニーチェ『善悪の彼岸』86番)

ところで、男たちではなく、女たちのほうが「女」を侮蔑することが多いのは、21世紀のわが日本でもしばしば見られることではなかろうか。いくつかのCM炎上事件におけるフェミニスト的女性の「活躍」やら「暗躍」やらを垣間見るとき、そう感じざるをえない。

彼女たちは、「男視線で作られた性的に媚びる女の表象」にいきり立つ。彼女たちの表面上の説明では、男根主義者たちによって「男視線で作られた」CMへの難詰である。だが潜在的には、あれは性的媚態を武器にする「女というもの das Weib」への憤りではなかろうか。この媚態をラカン派では、《他者の欲望の表象 signifiant du désir de l'autre》となることを欲する《女性の仮装性 mascarade féminine》と呼ぶ。そしてこれが女というものの本質とされる(参照)。たとえば日本における十代女性のミニスカ跳梁跋扈は、この一言で究明できうる。

実際のところ、ニーチェにおいても女性の仮装性が強調されている。

冒頭に引用した『善悪の彼岸』232番の前段には、《女の最大の技巧は嘘をつくこと seine grosse Kunst ist die Luegeであり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheitである》ーーとあるが、この「嘘をつくこと」と訳されている"Luege"は、語源的には「外観」という意味がある。

つまり「女の最大の技巧は嘘をつくことである seine grosse Kunst ist die Luege」 とは、「女の最大の技巧は外観である」であり、これは「女の最大の技巧は仮装性である」とほぼ等価である。仮装性とはラカンの別の言い方なら「仮面」なのだから。

男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。(ラカンS11、11 mars 1964 )

さて、ここでニーチェの遺稿から引こう。

「女性解放 Emancipation des Weibes」―― それは、一人前になれなかった女が…できのよい女にたいしていだく本能的憎悪 Instinkthassだーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。(ニーチェ『この人を見よ』)

ーー 21世紀の今、公然とこんなことを言ってしまったら袋叩きにあうに違いない・・・

だが、

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、である。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

ニーチェには、われわれの時代がどう見えただろうか。あいかわらずフェミニストたちを嘲罵しただろうか? 

この問題はしばらく脇におき、冒頭の《「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく》について、ラカンの若い友人であったソレルスによる実に巧みな変奏をかかげる、《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。

女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ、次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』)

もちろんこういったことを記していると、ポリティカルコレクトネスに反した「時代錯誤的トンデモ男」という紋切り型批判をこうむるのは、よく知っている。

だが「時代錯誤的」とは、「反時代的」のことでもある。

ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、仏語訳において旧訳が Considérations intempestivesで新訳は Considérations inactuelles となっている。

前者は「流行遅れの考察」、後者は「非アクチュアルな考察」である。

なぜ人は非アクチュアルな思考をしないのか。なぜ人は時代に逆らわないのか。まさかいまの時代のイデオロギーに満足しているわけではあるまい。

能動的に思考すること、それは、「非アクチュアルな仕方で inactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

ようするに、時代錯誤的に考える習慣をもたない人間は「善人」である。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

制度の掌に憩ってーーたとえば学者共同体に安住してーー、なれあいの生をおくるもの、それが善人である。

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

⋯⋯⋯⋯

※付記


「女性解放運動は、結婚、道徳、国家の終焉を生むだろう」と1970年に宣言したのはフェミニストGermaine Greer ジャーメイン・グリアだが、1996年のインタヴューで、予言が的中しつつあることにアンビヴァレントな表明をしている。これではたしてよかったのだろうか、という意味合いの。

日本的特殊事情はあるにしろーー2017年版「ジェンダー・ギャップ指数」114位、あるいは「親への寄生(パラサイト)」「少子高齢化世界一」「長期的経済低落」「社会保障制度における老人による若者への際立った搾取」等ーー、つまり日本社会に典型的にあらわれているるにしろ世界の先進諸国において類似した次のような傾向(今は日本のデータのみを示すが)が進捗していっていいのだろうか、はたして。








なんといっても「時代錯誤的に」驚きをあたえる図表である、1995年に日本をでて発展途上国に住んでいるわたくしには。《解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出した》のだろうけど。そして孤独な女だけではなく、孤独な男の大量生産もある、おそらく女性解放運動家のみなさんが(すくなくともひそかには)よくゴゾンジのように。

◆ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaegheより。

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではない、解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。

現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ないのだ。

女性解放運動による「犠牲者」というものがありうる、と人は(すくなくともときには)疑ってみることがなによりもまず肝腎である、とわたくしは思う。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、2012より孫引き、PDF
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists,2001)