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2018年4月27日金曜日

缶ビールである乙女

コメントを頂いているが、シツレイした。

サントリーの『絶頂うまい出張』には六人の美女がいるのに、前回、四人を掲げるのみで、二人を割愛してしまったのは、わたくし自身も遺憾でならない。ここではいくらか視点を変えて、二人の映像を掲げることにする。




二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。

しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は物欲しそうな眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファルス的存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因(対象a≒フェティッシュ)に還元してしまう。

この非対称ゆえに、「性関係はない」のである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。

われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同じ空間内で、同時に両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、じつは瓶ビールである少女について幻想すればいい。(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳 P.99~、一部訳語変更)





ジジェクの「若者であるカエルと瓶ビールである少女」文ーーこれはここでの文脈では「出張男であるカエルと缶ビールである乙女」であるーーに、「性関係はない」という表現が出てきているので、いくらか補足しておこう。

(性関係はない il n'y pas de rapport sexuelの)「~ il n'y a pas」という表現は、性関係を基礎づけることが不可能だということである。…l'énoncé qu'il n'y a pas, qu'il est impossible de poser le rapport sexuel (ラカン、S20、21 Novembre 1972)

ーーラカンの「性関係はない」という言明は、基本部分はフロイトにある。たとえば次の表現。

男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。

Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年)

ーー《リーベ Liebe とは、愛 amour と欲望 désir の両方をカバーする用語》(ミレール、1992、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour)であり、「性関係はない」とは、「男女のリーベを基礎づける共通分母はない」ということである。

「性関係はない」……性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

男と女のリーベは、どう違うのかといえば、最も基本的には、男のリーベの《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベの《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)である。

これは、ニーチェが既に次のように言っていることとほぼ等価である。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

もっとも、《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. 》(Lacan, S10、16 janvier l963)であり、女性においてもフェティッシュがないわけではない、

だが、

女性の愛の形式は、フェティシスト fétichiste 的というよりもいっそう被愛妄想的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

なぜこうなるのかといえば、フロイト・ラカン派では次のように説明されることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

ーーつまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

ところで、ポルトガル在住の、占星術を職業になされている菅知子(スガトモコ)さんという方が、「娼婦性について」、とてもすぐれた文を書かれている。

周りの大人の男の自分に対する視線が、子供を見る目から女を見る目に変わったときのことを、私は今でも覚えている。どこか色めき、にやつき、それでいてこわばるような、本能と自意識の混在したような目つき。その視線に応じて女は、自分にとってより有利な反応を引き出せる振る舞いや媚態を、無意識に体得してゆくのである。

ーーフロイト・ラカン派の幼児期の説明だけではなく、少女期におけるこういった心の動きの叙述は、男のわたくしにとっては、とても貴重である。他方、標準的な社会学者やフェミニストたちは、こういった文に直面して「父権的なリビドー経済を内面化しているだけよ」の類の、精神分析的観点からは一瞬にして論破されうる寝言しか繰り返していない。

ラカン、前期ラカン理論に戻れば、女性とは本質的に、「他者の欲望のシニフィアン」として自らを現わす存在なのである。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

※後期ラカン理論における異なった観点についてのいくらかは、「女は、幼女でも老女でも、Co(te)lette である!」にある。