ああ、なんという女神たちだ、サントリー=電通のいわゆる「炎上CM」なるものの制作者たちにオマージュを捧げなくてはならない。
生きつづける欲望を自己の内部に維持したいとねがう人、日常的なものよりももっと快い何物かへの信頼を内心に保ちつづけたいと思う人は、たえず街をさまようべきだ、なぜなら、大小の通は女神たちに満ちているからである。しかし女神たちはなかなか人を近よせない。あちこち、木々のあいだ、カフェの入り口に、一人のウェートレスが見張をしていて、まるで聖なる森のはずれに立つニンフのようだった、一方、その奥には、三人の若い娘たちが、自分たちの自転車を大きなアーチのように立てかけたそのかたわらにすわっていて、それによりかかっているさまは、まるで三人の不死の女神が、雲か天馬かにまたがって、神話の旅の長途をのりきろうとしているかのようであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
わたくしが愛するのは、なによりもまず辛子明太子を食す女性である。
とはいえどの女性もすばらしい、彼女たちが口直しに果実をお食べにならなかったのが惜しまれるが、それは贅沢な願いというものであろう。
なによりも肝腎なのは隠喩である。ヤン・ファーブルの舞台のようにそのまま出てきてブラブラされてもなんの面白いこともない。
S. Andre と J. Quackelbeen は、どんなエロス(愛)の辞書の研究も、避け難く次の結論に達すると主張する。すなわち、どの語も何かエロティックなものを示すのに使われうる。「無」という語でさえ女性器を表しうる、と(Andre, L'Ordre du Symbole, 1983、Quackelbeen, Zeven avonden met Jacques Lacan, 1991)。
我々はこの見解を別の観察を以て裏付けることができる。すなわちこの過程は裏返せない。基本シニフィアンは、実質的にすべてのシニフィアンによって暗示されうるが、シニフィアン「ペニス」だけはそれ自体のみに制限される。Gorman は全く異なった観点の研究から同じ結論に達している。彼はいわゆる「身体語」は非常に広い隠喩的使用を許容すると結論づける(古典的例として例えば「手」)。ただし一つの例外がある。性器の固有語はそれ自体しか徴示しえない、と(Gorman, Body Words, 1964-65)。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
そもそも食事を摂る行為は、エロスとタナトスの「欲動混淆 Triebvermischung の行為の、最もすぐれた隠喩である。
生物学的機能において、二つの基本欲動(エロス欲動とタナトス欲動)は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。
この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)
ゆえに若き乙女たちの飲食の瞬間はかぎりなく美しい。
最後に、あれらの「肉汁いっぱい出ました」「コックゥ〜ん!しちゃった」CMに、おそらく次のような表情をなされてお怒りになるある種の女性たちを、わたくしは軽蔑するつもりはまったくないことを記しておかねばならない。
ゴダール、(複数の)映画史 |
とはいえ、わたくしの偏った観点からは、あれらは女性の能動性を示す表象であり、批判される筋合いのものではない。
最近の調査が示しているのは、多くの女たちはフェラチオを、彼女たちが権力の感覚として、経験していることだ。それは、もちろん、イニシアティヴをとるという条件においてであるが。言い換えれば、能動的役割をとるという条件においてである。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE.1998)
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→「缶ビールである乙女」