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2018年4月26日木曜日

女は、幼女でも老女でも、Co(te)lette である!

SFDFF Reelより

ーーいやあ、すばらしい。女そのものだね、すくなくとも(たぶん)多くの男の視線からは。

上の映像自体は英映像作家 Mike Figgis によるものだが、もともとは、オランダの女性演出家(ダンス振付師) Ann Van den BroekのCo(te)lette (2007)によるもので、その映像化である(参照)。

以下のものは、Ann Van den Broekによる演出舞台そのものの映像の断片だろう。





そしてMike Figgis による映像化の断片はつぎのもの。





上の映像は、《猥褻とは裸体になることでもなければ、肉体の秘密を見ることでもない。むしろ、歩いている人が尻を左右に振ることのほうが、猥褻である》という文をすぐさま想起させる(参照)。この文は、渋澤龍彦が『エロスの解剖』で書いたのか、それともサルトルの孫引きだったか、ちょっと判然としないが、上の映像は、なによりもまず女性の媚態の「表象=シニフィアン」である、とわたくしは「感受」する。

媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)

これらは、ラカン的言えば、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)にかかわる。

女性の愛の形式は、フェティシスト fétichiste 的というよりもいっそう被害妄想的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

なにはともあれ、あれらの映像は「女性の仮装性 mascarade féminine」を見事に表象している、とわたくしは思う(Ann Van den Broek や Mike Figgis の意図がどうであれ)。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminine のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

あるいは、

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

ーー《見せかけ、それはシニフィアン(表象)自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

⋯⋯⋯⋯

今、前期ラカン(一部、中期ラカン)を掲げたのみだが、後期ラカンには別の側面もあることを示しておかねばならない。いくらか長くなるが、誤解を避けるためにはやむえない。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …«斜線を引かれた女 Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化 dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。… (ラカン、S20, 13 Mars 1973)

ーーS(Ⱥ) の「大他者の大他者はない」の側面は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

ここでは、最近のジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿であり主流ラカン派のドン)のいくらか別の観点からのS(Ⱥ) というマテームをめぐる記述を掲げる。

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienneである。(ミレール、Jacques Alain Miller, 2001, LE LIEU ET LE LIEN)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ミレール 、Première séance du Cours 2011)

ーーポワン・ド・キャピトン point du capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。その基本的意味とは次の通り。すなわち袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりすることを言う。

ミレールの言っている「S (Ⱥ)=欲動のクッションの綴じ目」とは、原初のポワン・ド・キャピトンということである。下記の図でなら、一次原抑圧S (Ⱥ)/Ⱥのことを言っている(参照:三種類の原抑圧)。




ーー標準的な男は別に、S1(≒ファルス)というS (Ⱥ)のクッションの綴じ目(S1/S (Ⱥ))があるのである。

ラカンのS (Ⱥ)とは、フロイトの表現なら、「境界表象 Grenzvorstellung」、あるいは原防衛のシニフィアンだと(ほぼ)捉えうる。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、Brief an Fliess、 1 Januar 1896)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)


境界表象なのだから、欲動のクッションの綴じ目だとしても、欲動は十分には飼い馴らされていない(欲動は、フロイトの表現なら《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》(1937)でもある)。

結局、ラカンのS (Ⱥ)とは、「自ら享楽する身体のシニフィアン」と等置されうる。

「自ら享楽する身体  corps en tant qu'il se jouit 」とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

ゆえにラカン的な女とは、前期ラカンの「他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre」にかかわるとともに、後期ラカンの「自ら享楽する身体  corps en tant qu'il se jouit 」、つまり自体性愛にかかわるのである。要するに、あれらの映像はこの後期ラカン的な視点から見る必要もある。

ジジェクは次のように記している。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ミレールは女性の享楽について次のように言っている。

純粋な身体の出来事としての女性の享楽の部分 la part de la jouissance féminine qui est un pur événement de corps  (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

そして身体の出来事とは、サントーム(原症状・原抑圧・原固着)である。

 サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l'outrepasse、2011)  

より具体的には、

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書か れもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みで ある。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007 所収)

シニフィアンとは、基本的に「表象」と等価であり、表象と享楽の両方を一つの徴で示すのが、欲動のクッションの綴じ目としての「境界表象」である。

いま上に掲げた「女性の享楽」をめぐるジジェクとミレールの文は、ラカンの次の文とともに読むとよいだろう。

«斜線を引かれた女 Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化 dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。… (ラカン、S20, 13 Mars 1973)

⋯⋯⋯⋯

わたくしが冒頭近くに、Co(te)letteの映像を「女そのものだね」と記したのは、こういう前提のもとである(フェミニストのおねんさん方に怒られないように理論的な説明が長くなってしまったが)。

とはいえ、ここでまたしても、フェミニストのおねんさんたちがオキライな吉行淳之介になぜか触れる必要があるのである・・・(いやほんとうは、吉行に触れるために、理論的な説明の鎧を着たのをおわかりいただけるだろうか)。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』ーーラカン派的子宮理論

ああ、まさにこれなのである。子宮は「自ら享楽する身体」と理論的に置き換えてもよいが。

そして、

幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(今週の本棚:丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著

ああ、まさに女とは幼女でも老女でも、Co(te)letteなのである!




そのご婦人は六十歳か、六十五歳くらいだったろう。ひろびろしたガラス窓を通して、パリがすっかり見えるモダンな建物の最上階にあるスポーツ・クラブのプールを前にして、長椅子に寝そべりながら、私は彼女をみつめていた。(……)

誰かに話しかけられて私の注意はそらされてしまった。そのあとすぐ、また彼女を観察したいと思ったとき、レッスンは終っていた。彼女は水着のままプール沿いに立ちさってゆくところで、水泳の先生の位置を四メートルか五メートルほど通りこすと、先生のほうをふりかえり、微笑し、手で合図した。私は胸がしめつけられた。その微笑、その仕草ははたちの女性のものだった! 彼女の手は魅惑的な軽やかさでひるがえったのだ。戯れに、色とりどりに塗りわけた風船を恋人めがけて投げたかのようだった。その微笑と仕草は魅力にみちていたが、それにたいして顔と身体にはもうそんなに魅力はなかった。それは身体の非=魅力のなかに埋もれていた魅力だった。もっとも、自分がもう美しくないと知っているにちがいなかったとしても、彼女はその瞬間にはそれを忘れていた。われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。いずれにしろ、水泳の先生のほうをふりかえり、微笑し、手を仕草をした瞬間(先生はもうこらえきらなくなり、吹きだしてしまった)、自分の年齢のことなど彼女はなにも知らなかった。その仕草のおかげで、ほんの一瞬のあいだ、時間に左右されたりするものではない彼女の魅力の本質がはっきり現われて、私を眩惑した。私は異様なほど感動した。(クンデラ『不滅』)

ああ、老いたピナ・バウシュ! 初老過ぎてそれぞれのピナをもっていない男などクソである!

泣かないで、歌いなさい

ピナはヘビースモーカーだった。「自体愛的享楽」(自ら享楽する身体)の芸術家ヤン・ファーブル Jan Fabreーー「私は血 Je Suis Sang」の舞台演出家ファーブルーーは、ピアとの最後の邂逅をめぐって次のように記している。



My last beautiful encounter with Pina was a night in an Antwerp restaurant a year ago. They closed the restaurant especially for us in order that we could smoke. Pina was a great lady, a great artist, and a fantastic smoker! I imagine that she died with a cigarette in her mouth: you have to stay loyal to the things that kill you.(Pina Bausch tributes)




⋯⋯⋯⋯

 お茶の水女子大学「ジェンダー研究会」にも招かれて講演をしているコプチェク(2006/10/8 Joan Copjec)は、現在の「ジェンダー研究」は、性を中性化し、性差からセクシャリティを取り除いてしまった、と言っている(もともとは2010年にスペインでなされた講義にて)。

For, from the mid-1980s on, the psychoanalytic category of sexual difference was deemed suspect and largely forsaken in favor of the neutered category of gender. Yes, neutered, I will insist on this; for it was specifically the sex of sexual differencethat dropped out when this fundamental psychoanalytic term was replaced by gender.

Gender theory should thus be viewed as having performed one major feat: it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual (Sexual Difference : Joan Copjec)

現在のジェンダー研究とは、21世紀という退行の世紀の典型的な「症例」のひとつである。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出)
根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)