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2018年4月28日土曜日

男は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない

いちども愛の話をきかなかったら、ほとんどの人間は愛することなどけっしてしなかっただろう。 Combien de gens n'auraient jamais aimé s'ils n'en avaient entendu parler (ラ・ロシュ フーコー 「道徳的反省」)

ーー《文化がなかったら、愛の問題はないだろう。 Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture 》(ラカン、S10, l3 Mars l963)

男は、間違って、ひとりの女に出会い rencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり、通常、「性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel」が起きる。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

Lacan's country house


セクシャリティは、われわれが他の人間の内密さに最も接近し、彼あるいは彼女に自らを全面的に晒す領域なので、ラカンにとっての性的享楽は現実界的である。その息もつけないほどの強烈さはトラウマ的な何ものかであり、われわれがそれをまったく理解できないという意味では、不可能な何ものかである。だからこそ、性関係は、それが機能するために、或る幻想を通して覆いをされなければならない。(ジジェク 『ラカンはこう読め』)

ゴダール、「(複数の)映画史」

古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

ゴダール、さらば、愛の言葉よ Adieu au Langage, 2014

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だêtre une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)


ゴダール、(複数の)映画史


アウグスティヌスという、五世紀の偉大な学者が、性欲によって、人間の罪は伝わると言ったが、僕はこの言葉に非常な興味をもっている。

性欲は人間の愛の根源であるとともに、またそれに影を投げかける。それがなけれぱ、すなわち肉交がなければ、愛はどうしても最後の一物を欠くという意識をまぬがれがたいと同時に、それは同時に愛に対して致命的になる要素をもっている。肉体のことなぞ何でもないという人のことを僕は信じない。それはなぜか、肉交は二人の間の愛がどういう性質のものであったかを究極的な形で暴露してしまうからだ。つまりその意味は、肉交には、人間の精神に様々な態度があるだけそれだけ多様な形態があり、しかもそれが精神におけるように様々な解釈の余地がなく、端的にあらわれてしまうからだ。

肉交は一つの端的な表現だ。それは愛の証しにもなるし、その裏切りにもなる。二つの性の和合にもなるし、一つの性による他の性の征服にもなる。もちろん僕は簡単な言葉を用いているが、和合の形をとる征服もあるし、征服の形をとる和合もある。要はその本質の如何にある。そうするとやはり根本は態度の問題になる。肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう。「精神」というものがそこに表われている。精神というものがあるとすれば、そういうものでしかありえない。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)


ゴダール、(複数の)映画史

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《ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. 》(ラカン, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(ジジェク『無以下のもの』2012)

ーー女というものは存在しない。だが、ひとりの女、ひとりの女⋯⋯、女たちはいる。そしてそのひとりの女とは、ラカンのいうように(ときに)他の身体の症状である。

「他の身体」とは何か。《われわれにとって異者としての身体(異物としての身体) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)(参照)に相当する。

そして《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》とはフロイト概念「異物Fremdkörper」のことである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

「異物 Fremdkörper」とは、ラカンの「外密 Extimité」である。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

そして《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

「他の身体の症状」とは、ファルス秩序の外部にある「他の享楽(女性の享楽)」のことでもある。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーこの文にある{他の享楽」(通常は「大他者の享楽」と訳されてしまう)とは、女性の享楽のことである(参照:女性の享楽と身体の出来事

ようは他の身体の症状とは女性の享楽の症状である。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

「固着」とある。これはフロイトの原抑圧(引力=エロス)にかかわる語彙である(参照)。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ひとりの女は、異者として暗闇のなかに蔓延るのである。 そして男も女もその「引力」に惑わされる。

女というものは、女にとっても抑圧(放逐)されている。男にとってと同じように。La femme est aussi refoulée pour la femme que pour l'homme.(Miller J.-A., Ce qui fait insigne,1987)

この文の「抑圧」は、現在ラカン派の観点からは、原抑圧(排除)として取るべきである。


人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert, 2018)

そもそも《女というものは存在しない》とは、女のシニフィアン(表象)が象徴界にはないということであり、ラカンの言明はフロイトの次の指摘の簡略表現である。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

象徴界、つまり言語の世界において性差を徴づけるものは、誰もが実は知っているように、ファルスのシニフィアンしかない。例えば赤子が生れたときにまず注意が向けられるのは、ファルスプラス/ファルスマイナスである(ファルスの現前/不在 l'absence -ϕ et la présence ϕ)。

ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan, 1953–1963 , 2001)


要するに女というものは象徴界から排除されているのだから、現実界に(幽霊のようにして)現れる。

象徴界に拒絶されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)
Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)

《現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。》(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function— を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象 a である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

たとえばカフカはこの幽霊に直面したのである。おそらくゴダールもほとんど常に。


Liberté et Patrie - Jean-Luc Godard et Anne-Marie Miéville (2002)

手紙をたやすく書ける可能性はーー論理的にのみ見てーー魂の恐ろしい破壊を世界にもたらしました。

それは幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。それは手紙を書く手のもとで大きくなり、それどころかひとつの手紙が他の手紙を裏付け、証人として呼び出しうるような一連の手紙のなかで大きくなります。人間が手紙でお互いに交わることができるなどと、どうやって考えついたのでしょう! 

遠くにいる人のことを思い、近くにいる人には触れることができます。それ以外のことはすべて人間の力を超えています。手紙を書くとはしかし、むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。このたっぷりとした食べ物によって彼らはとてつもない数に増えています。人類はそれを感じてそれと闘おうとし、できるかぎり人間のあいだの幽霊じみたものを排除し、自然の交わり、魂の平和に辿り着くために、鉄道、自動車、飛行機を発明しました。しかしそれははや何の役にも立ちません。(⋯⋯)敵側はそれだけ冷静に、強大になり、郵便のあとには電報を、電話を、電信を発明しましたが、幽霊たちは飢えることはなく、破滅するのは私たちの方でしょう。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)

Hélas pour moi,1993