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2018年4月30日月曜日

モンタージュとワンシーン・ワンショット

テオ・アンゲロプロスは、ギリシャという小さな国で映画を撮り続けることの困難さをさかんに強調しているが、あれだけの長いワンシーンのショットを撮れるんだからそれで満足すべきなんだといいたい。私には、あんな贅沢な撮影をしている余裕がとてもないのです。そもそも、ギリシャは小国じゃあない。数千年の芸術の歴史を持つ超大国なのです(笑)。(ゴダール、ーー蓮實重彦インタビュー「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」1987.8.15『光をめぐって』所収)

この文に感心したり蓮實の絶賛に促されたりして、30才前後のとき、「旅芸人の記録 Ο Θίασος」(1975)「狩人 Οι Κυνηγοί」(1977)「 シテール島への船出 Ταξίδι στα Κύθηρα」(1984) 「霧の中の風景 Τοπίο στην ομίχλη」(1988)を観たことがある。たしかにアンゲロプロスの時間の流れにウットリしたことがなかったわけではないが、いかんせん彼の作品を通して観るには(すくなくとも当時のわたくしには)忍耐力が必要だった。




ーーテオ・アンゲロプロスの作品は叙事詩だ、いかにも古代ギリシア的な。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています、ひとつの画面にあって、観客は、そのしかるべき要素を自分で発見し、自分でそれを組織だててゆく。その時間的推移は、モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い。そうすることで、死んだ時間、停滞する時間に対する観客の感性を豊かなものにすることも可能になります。
……
───そのことはとてもよくわかり、まさにそうした点においてあなたの映画に興奮するわけですが、そうした場合、あなたは、観客を全面的に信頼しておられるのですか。

観客にはいろいろ種類があります。アンドレ・マルローが「映画の心理学」でいっているように、映画にとっての障壁が産業であるなら、それによってわれわれは条件づけられてしまう。それはよかろう。だとするなら、選択しなければならない。その一つは、映画を撮りはするが、いつか沈黙におしやられはしないかという危険をいつでも身に感じながら撮り続けるという姿勢をとるか、それとも、いま一つの姿勢として、他の誰もが撮るようなやり方で、つまりモンタージュの映画か、説話論的有効性の映画、等々もつくってゆくことにするか、その二つに一つしかない。つまり、沈黙に向かうか、金銭に向かうか、その選択ということ以外にありえないわけですが、どうでしょうか、ある作家たちは、こうした二つの方向を厳密に選択することなく、複雑な経路をへながらも、みごとな作品を撮り続けることができる。おそらく、私には、そうしたことはできないと思う。しかし、私はそれで他人を批判しようとは思いません。あらゆる批判は自分自身にむけられます。(テオ・アンゲロプロス、ーー蓮實重彦インタビュー「二十世紀の夢を批判的に考察したかった」1982.2.21『光をめぐって』所収)



⋯⋯⋯⋯

ところで、モンタージュの作家、引用の・複製の作家ゴダールの作品はどうとらえたらいいのだろう。ゴダールは果たして《あんな贅沢な撮影をしている余裕がとてもない》という理由のみで、モンタージュをやってきたのだろうか。ヒッチコックのモンタージュを愛したゴダールである。まさかそうであるわけはない。

ワンシーン・ワンショットの映画(⋯⋯)その時間的推移は、モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い。そうすることで、死んだ時間、停滞する時間に対する観客の感性を豊かなものにすることも可能になります。

たしかに《ワンシーン・ワンショットの映画》とは《モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い》といえるかもしれない。ただし象徴的な時間、クロノス的時間においてという限りで。

だが人にはカイロス的時間というものがある。

狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。(中井久夫『分裂と人類』)

狩猟採集民たちは、 《三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する(……)。(砂漠において)彼らに必要な一日五リットルの水を乾季にほとんど草の地下茎から得ているが、水の多い地下茎と持つ草の地表の枯蔓をそうでない草のそれから識別する》(『分裂病と人類』)

これはわれわれ通常人にもときに起こる。

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

あるいは人は、バルトの《ゆらめく閃光》の刻限、大江健三郎の《一瞬よりはいくらか長く続く》時間(ひょっとしてアンゲロプロスに映像に魅された理由を挙げるとしたらこの側面かもしれない)、フロイトの《無時間的な心的現実》、プルーストの《時間の外 dehors du temps》《超時間的 extra-temporel》な刻限をもっている。

・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。

・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。

・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
・ システム前意識においては、二次過程が支配している。Im System Vbw herrscht der Sekundärvorgang

・一次過程(備給の可動性)は、無時間的であり、外的現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識に属する過程のなかに見出しうる。Primärvorgang (Beweglichkeit der Besetzungen), Zeitlosigkeit und Ersetzung der äußeren Realität durch die psychische sind die Charaktere, die wir an zum System Ubw gehörigen Vorgängen zu finden erwarten dürfen.(フロイト『無意識』1915年)
⋯⋯⋯⋯ところでこの原因を、 私はこうした様々な至福の印象を比較することによって見抜いたが、そうした印象は互いのうちで次のような共通点を持っていた。というのは、皿に当たるスプーンの音、不揃いな敷石、マドレーヌの味などを、現在の瞬間において感じると同時に、遠い過去の瞬間においても感じていた結果、私は過去を現在に食い込ませることになり、 自分のいるのが過去なのか現在なのかも判然としなくなっていた、ということだ。実を言うと、その時私のなかでこの印象を味わっていた存在は、その印象の持っている昔と今とに共通のもの、 超時間的なもの extra-temporelのなかでこれを味わっていたのであり、その存在が出現するのは、現在と過去のあいだにあるあのいろいろな同一性の一つによって、その存在が生きることのできる唯一の環境、物の本質を享受できる唯一の場、すなわち時間の外 dehors du temps に出たときでしかないのだった。そのことが知らず知らずにプチット・マドレーヌの味を再認した瞬間に、死にかんする私の不安がやんだ理由を説明してくれるものだった。 なぜならこのときの私は超時間的 extra-temporel な存在であり、したがって将来に訪れる苦難も気にしない存在だったからだ。つまりこうした存在は、行動したり、物を直接的に享受したりするときではなく、それ以外のところで、 二つのものの類似の奇跡が私を現在時からのがれさせるそのたびごとに私のところへやって来て、その姿をあらわしたにすぎなかった。(プルースト『見出された時』)

さらには人は、外傷的静止画像に近似したイマージュをもっている。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
…我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané の状態に凍りつかせて fige 還元する réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動き mouvement cinématographique を考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化(静止画像化)されている何か quelque chose qui s'immobilise dans ce fantasme、そこには全てのエロス的機能 valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれている…(ラカン、Le séminaire livre IV)

こういった時間に近似したものを表現するには(場合によっては)モンタージュのほうが適しているのではないだろうか、他の言い方なら、イマージュを揺らめかしたり穴を開けたりするためには。

現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18、20 Janvier 1971)
精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ミレールセミネール、23 novembre 1994)

ラカンにとって見せかけ semblant とはシニフィアンつまり表象のことである。《見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)


ここでテオ・アンゲロプロスのモンタージュ批判の箇所を再掲しよう。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。

たしかにこういったモンタージュは退屈である。テレビドラマの映像はほぼこれで成り立っている筈である。だがゴダールのモンタージュはほとんど常にそうではない。外傷的静止画像とまではいかなくても、彼のモンタージュは、自由詩による行分けのような印象をもたらすことがわたくしには多い。《ああかけすが鳴いてやかましい》(西脇順三郎)

彼のモンタージュ作品の極限は『(複数の)映画史』だろう。




ーー《あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses》、撮影カメラとはペニスなのよ。

私のフィルムは、男と女のあいだの誤解の歴史です。Mon film c’est l’his­toire d’un malen­tendu entre un homme et une femme.(ゴダール




《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)




《何もかもつまらんという言葉が/坦々麺をたべてる口から出てきた》(谷川俊太郎「坦々麺」)

すくなくとも『映画史』におけるゴダールのモンタージュ(編集)とは、 イマージュとイマージュの隙間の魂の隠れ家、神の隠れ家を探し出す作業であるにちがいない。

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)

⋯⋯⋯⋯

ゴダールは、ピエール・ルヴェルディPierre Reverdy のイマージュ論を、何度もくり返して引用している。『パッション Passion』(1982)、『ゴダールのリア王 King Lear』(1987)、『右側に気をつけろ Soigne ta droite』(1987)、『JLG/自画像 JLG/JLG - autoportrait de décembre』(1995)、『(複数の)映画史 4B Histoire(s) du cinéma: Les signes parmi nous』(1998)、『アワーミュージック Notre musique』(2004)にて。

最も長く引用されているのは『リア王』においてであり、以下の文である。

イマージュ image は、精神の純粋な創造物 création pure de l'esprit である。それは比喩 comparaisonからは生まれ得ず、多少なりともかけ離れた éloignées 二つの現実 deux réalités の結合 rapprochement(接近・和解)から生まれ得る。結合させられた rapprochées 二つの現実の関係が、遠隔かつ適正なもの lointains et justes であればあるほど、イマージュはいっそう強くforte なり、情動を動かす力能 puissance émotive と詩的レアリテ réalité poétique をもつ。関連性 rapport のない二つの現実は、有効には utilement 互いに結合 rapprocher しえない。そこにはイマージュの創造 création d'images はない。正反対 contraires の二つの現実は結合 rapprochent されえない。それらは相反 opposent する。人はその対立からは滅多に強さforceを獲得しえない。イマージュの強さforteは、残虐さや幻想性 brutale ou fantastiquでなく、諸観念のつながり association des idées の遠隔さと適切さ lointaine et juste から生まれる。(ピエール・ルヴェルディ Pierre Reverdy、『イマージュ L'image」in Nord Sud n° 13, mars 1918.)