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2018年12月25日火曜日

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

以下、資料集。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)



◆セミネール20における「享楽の図」の書き直し




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人はラカンがファルス用語でシニフィアンを書こうとする試みに出会って、あらゆる難解さを見る。

ラカンは分析経験において外立する(外部にある ex-sistant)シニフィアンを、(-φ)と書く。去勢としての(-φ)である。恐怖を生む最後の真理 vérité dernière qui produirait de l'horreur としての去勢である。…

次にラカンは、大きなファルス Φ として去勢を書く。現実界的ファリックシニフィアンsignifiant phallique réelである。彼はΦは否定不可能だと明示的に言っている。ラカンは(-φ)とΦを、一つのシニフィアンと別のシニフィアンとして関連づけることによって複合構築construction complexe の試みをしている。

ラカンはなぜそれで満足しなかったのか? なぜなら、ファルスは繋辞 le phallus c'est une copule だから。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。これは、斜線を引かれたA[grand A barré](Ⱥ)の論理と反対である。したがってラカンは(a)と書く。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。

人が、対象a と書くとき、正規の身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた 「享楽する意味 sens-joui」である。

我々が、この用語について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界の審級なかに享楽を孤立化する isoler la jouissance comme de l'ordre du réel こと、すなわち、意味において外立的 ex-sistant au sens であることである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)




倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)


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自閉症的享楽としての正規の身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)


自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)



自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量 Betrag von Libido が蓄積される。われわれはこれを絶対的な、原ナルシシズム(一次ナルシシズム primären Narzissmus)と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以って対象表象 Vorstellungen von Objekten に備給 besetzenし、ナルシシズム的リビドー narzisstische Libido を対象リビドー Objektlibido に移行させるまで、続く。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)




丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)



ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (miller, 9 du 30 mars 2011)




ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」2010)


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大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
大他者の享楽、大他者という身体の享楽 la jouissance de l'Autre, du corps de l'Autre(ラカン、S20, 21 Novembre 1972)
われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger (S23、11 Mai 1976)
享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)


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身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドー固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの(≒身体に突き刺さった骨)、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からーである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)



私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
 欠如の欠如 manque du manque (=穴)が現実界を生みだす。それは唯一、コルク栓 bouchonとして、そこに現れる。(Lacan、AE573、1976年)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)




穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧(=固着)自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)
リビドーは、その名が示しているように、に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



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※付記

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

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享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)





ーーここでの栓とはコルク栓 bouchon(穴埋め)のこと。母栓、父栓は上にみた通り。自栓とは、「フェティッシュとしての見せかけa」のこと。

セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes, 1992)

・対象aは、「喪われたもの・享楽の控除 perte, le moins-de-jouir」の効果と、その「喪われたものを補填する剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。

・「現実界はコルク栓であるle réel est bouchon」と言うことは、ボロメオの環の構造のなかに現実界を置くことである。栓をされるものは、常に穴である Ce qui se bouche, ce sont toujours des trous。(コレット・ソレール Colette Soler 、Les affects lacaniens 、2011)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ](穴)と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère,(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
モノは無物とのみ書きうる la chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

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あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)



貨幣フェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品フェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)
穴は非関係によって構成されている un trou, celui constitué par le non-rapport,(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

※参照:資本の論理(文献列挙)