フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
ラカンはフロイトのモノについて色々なことを言っているから、当面、現実界の箇所を「無 Rien 」としてきたけれど、ここを「モノ das Ding」と置いたら、そのままカントだ。
・カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。
・彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
そしてボロメオの環の基本図でとても役に立つのは、重なり合いだな。
モノはイメージに食べられ、イメージは言語に食べられる。でもモノは言語を食べる(穴をあける)。
というわけで、ここで(カント嫌いの)初期ニーチェが登場する。
・言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。
・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)
つまりは、
フロイト・ラカン的には、真ん中の a というのが、「モノ → イメージ → 概念」に移行するたびに喪われるものということになるな(ここでは遡及性概念をいったん脇に置けば)。
機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。(フロイト『機知』1905年)
このモノ表象が、ニーチェの音調であり、ラカンのララングだ。
言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…
事物に名と音調が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)
ラカンのララングは、「もの」としての言葉、「言葉の物質性 motérialité」である。
・ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。
・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
したがってラカンの次の発言が生まれる。
私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…。どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の本能 l'instinct de mort と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance …。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン, S13, L’objet de la psychanalyse, 8 juin 1966).
ここでの享楽は去勢の意味にとってよい。
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
いや説明がながくなるから、ここではマルクスのボロメオ図だけ。
あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)
対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966ーー資本の論理(文献列挙))
ここでラカンが対象aと呼んでいるものは、中心のaだけではなく、JȺ、Js、JΦとしての対象aもふくまれる(マルクス的には自動フェティッシュ、商品のフェティッシュ、資本のフェティッシュ)。
貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)