【ララングという母の言葉】
ラカンはララングを次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé、2009)
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。
ララングは習得 apprend されない。ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。
ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens、2011)
【ララングという「もの」としての言葉】
・ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。
・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)
機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。(フロイト『機知』1905年)
【胎児期の母の言葉】
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
【ララングという母の聖痕】
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母のララングに起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。
これは、母の要求・母の欲望・母の享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。人はそこから分離しなければならない。
この「母の法」は、「非全体pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminineの属性を受け継いでいる。それは無限の法 loi illimitéeである。(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
【ララングという身体の出来事】
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
ーー女性の享楽については、「女性の享楽簡潔版」を参照。
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)
【サントームの永遠回帰】
サントーム、それは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。
・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
【身体の出来事の反復強迫】
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ーー「固着」については、「リビドー固着という人間の根」を参照。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。…それは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、23/03/2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un- 2/2/2011 )
※付記
【言語は存在しない。ララングしかない】
ラカンが「存在しない」というときは、仮象だという意味である。すなわち言語は仮象である。ララングは仮象ではない。
【言葉と音調】
→参照:自体性愛と去勢の原像
【言語は存在しない。ララングしかない】
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
ラカンが「存在しない」というときは、仮象だという意味である。すなわち言語は仮象である。ララングは仮象ではない。
見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection、1980年)
【言葉と音調】
言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…
事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声(音調 Töne)を発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)
いまや勝利を得るには、語-息 mots-souffles、語-叫び mots-cris を創設するしかない。こうした語においては、文字 littérales・音節 syllabiques・音韻 phonétiquesに代わって、表記できない音調 toniques だけが価値をもつ。そしてこれに、分裂病者の身体 corps schizophrénique の新しい次元である輝かしい身体 corps glorieux が対応する。これはパーツのない有機体 organisme sans partiesであり、吸入 insufflation・吸息 inspiration・気化évaporation・流体的伝動 transmission fluidique によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体 corps supérieur、器官なき身体 corps sans organes である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen, 2016, PDF)
→参照:自体性愛と去勢の原像