柄谷行人は1989年時点で、デカルトに依拠しながら、「人間は機械だ、言語の機械だ」と言っている。
これは、少し前示した次の図(参照)の左項のことを示している。
デカルトは、「人間と動物の間にある差異」を言語に見出している。たとえ動物が言語を話しても、「自分が口にすることは自分が考えていることであるということを明らかに示しながら話すということはできない」。「そして、このことは、動物が人間よりすくない理性をもつ、ということを示すだけではなく、動物が理性を全くもたない、ということを示している」(『方法序説』)。
しかし、言語能力が生得的であることは、人間が動物とはちがった「機械」であることを意味するだけである。それは“精神”の条件であっても、“精神”ではない。そして、“精神”の条件と“精神”は決定的に異なる。したがってまた、言語あるいは言語能力は“精神”があることの「証明」にはなりえないのである。
われわれはある言語体系のなかで語っている。そのような言語体系は機械である。文化は機械である。「無意識は言語のように構造化されている」とラカンがいうのが正しければ、そのような無意識も機械である。機械という言葉を避けて、構造や関係システムといいかえることは、かえって欺瞞的である。そこにはまだ何か「精神的」な色合いが付着しているからだ。
デカルトが“精神”の自律性を主張しているというのに、彼の機械論によって精神がおびやかされていると考えるのは奇怪である。デカルトの“二元論”を攻撃する者こそ、二元論なのである。「精神」は、われわれが属しているシステムの外に立つことを要求する。だが、それは“私”的であって、何一つ根拠をもちえない。「精神」であることは、容易なことでもないし、望ましいことでもない。
ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説く[あの]連中のように、夢をみていることを望むのである。柄谷行人『探求Ⅱ』「第二部超越論的動機をめぐって」第一章「精神の場所」1989年)
これは、少し前示した次の図(参照)の左項のことを示している。
ようするに柄谷=デカルトの「人間は機械だ、言語体系のなかの機械だ」とは、「象徴界の中の自動反復」の意味である。
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それが(アリストテレスの)オートマトン αύτόματον [ automaton ]である。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
ーーこのオートマトンはフロイトの「自由連想」にもかかわる。
ここで断っておかねばならないのは、上の図ーーミレール2005年セミネールの冒頭図ーーの右項の中段にあるオートマトンとは、今記した象徴界のなかの自動反復のことではなく、後期ラカンにおける現実界の自動反復のことであり、フロイト『制止、症状、不安』に出現する「自動反復 Automatismus」(「反復強迫」)のことである(参照)。
柄谷のいっている「機械」は上の図の左項にのみにかかわり、右項は視野のなかに入っていないのは時期的にやむえない。
あの中井久夫でさえ、柄谷がああ記した7年後でも、こう言っていた時代である。
ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
現在のラカン派的観点では、上図の左項の機械の底には、右項の機械がどの人間にもある。こちらのほうが原症状(サントーム)である。すなわちフロイト・ラカン派においては、人間は二つの機械なのである。
ここでもうひとつ以前に示した図を掲げよう(参照)。
この図は、現実界①と現実界②の相違を示すために主に示したのだが、ここでの話は「象徴界の中の自動反復」と「トラウマ的現実界の自動反復」である。
その意味は、人間の症状は二重構造になっているということだ。つまり先に示した図の左項が上階の幻想機械に相当し、右項が地階が身体機械である。
幻想機械
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身体機械
この身体は通常デカルト文脈で解釈される「身体」の意味とはやや異なるかもしれないが。むしろスピノザがいう身体だ。
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)
「幻想機械/身体機械」は、「欲望機械/欲動機械」と言い換えてもよい。
欲望機械
ーーーー
欲動機械
ここでまた断っておかねばならないのは、ドゥルーズ&ガタリの欲望機械概念は、ジジェクなどがくりかえし厳しい批判をしているように、もし人がフロイト・ラカン的用語遣いの立場に立つなら、到底受け入れ難い表現である。ジジェクは「欲望機械」は「欲動機械」と言い直すべきだ、としているが、仮にそうであっても欲望の自由な流体的運動はありえないと。
ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)
ーーこの相の現代ラカン臨床派的観点は「母の言葉の永遠回帰」の末尾に示唆したが、そこでの文献には示していない観点としては、「子宮回帰運動」にて示したフロイトの次の二文が、一見、自由にようにみえる運動の核心である。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
ーー後者の欲動満足としての反復強迫(死の欲動)とは、ラカン派用語では、原抑圧という穴(引力)のまわりの自動享楽(自動反復 Automatismus)と言いうる(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)。それは原抑圧の穴によって強制された運動なのである。
従って肝腎なのは『アンチ・オイディプス』に(たしか一度だけ)出現する「欲望機械 machines désirantes」では全くなく、ドゥルーズの1960年代後半の仕事において頻出する《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》、これが地階にある欲動機械である(参照)。
上階とは、抑圧の機械、地階とは、原抑圧(リビドー固着)の機械と言い換えてもよい。これは、フロイトが精神神経症/現勢神経症という語彙でいわんとしたことである。
原抑圧(=リビドー固着)は「現勢神経症 Aktualneurose」 の原因として現われ、抑圧は「精神神経症 Psychoneurose」 に特徴的である。
(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
原抑圧をフロイトは引力と呼び、ラカンは穴と呼んだ。穴とはラカン派注釈者のあいだではしばしばブラックホールと言い換えられる。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ドゥルーズも1968年にはこう書いているのである。
フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
したがってフロイト・ラカン派観点からは、1972年に提出された、欲望の自由な運動としての「欲望機械」とは、どう贔屓目にみても、議論の余地なき「退行概念」である。欲望機械とはラカン派観点からいえば、《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。
もっともフェティシストでなぜ悪い? という立場もあろう(参照)。
倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
フェティッシュや妄想とは、「世界の夜」に直面した者たちの治療行為でありうるのだから。
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911ーー「女性の享楽とは死の欲動のこと」)
だが人は妄想やフェティッシュの底にある「世界の夜」、あるいは「世界のネガ」を見据える必要はかならずある。
精神は、否定的なもの(ネガ Negativen)を見据え、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)
問題は、この世界のネガーーラカン的には「大他者の大他者はない」ーーを一度も見据えることもなく、上層部だけでうわっ滑りしている妄想者やフェティシストである。
・メタランゲージはない。il n'y a pas de métalangage
・大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
・真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.
ーー見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
なにはともあれ、すくなくとも現在のドゥルーズ研究者は、「欲望機械」/「強制された運動の機械」のふたつの表現の矛盾と闘うべきだと、わたくしは考えているが、今にいたるまで(わたくしの知る限り)その気配はない。
「強制された運動」とは、『差異と反復』、『プルーストとシーニュ』だけではなく、『意味の論理学』にも、フロイトの反復強迫と等価なものであるのを示す、或る意味で決定的な文がある、《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)
⋯⋯⋯⋯
最後に症状の二重構造について、ポール・バーハウ Paul Verhaeghe とフレデリック・デクラーク Frédéric Declercq によるきわめて明晰な文で補っておこう。
フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「プシュケ(心的なもの)」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。
これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、後の論文『性欲論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)
この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002ーー「俺の中のうその真珠」)