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2019年1月20日日曜日

子宮回帰運動

《以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, 》(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)








エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

⋯⋯⋯⋯



【喪われた子宮内生活への回帰運動】
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


【母の去勢・去勢の原像】
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


【母なる大地・沈黙の死の女神】
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


【エロス/タナトス、融合/分離、引力/斥力、欲動混淆】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


【マゾヒスムという自己破壊欲動】
外部(現実)の危険 äußere (Real-) Gefahr は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
※上文註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実的不安 Realangst に幾分か欲動不安Triebangstがさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (…)

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向Tendenz zur Selbstdestruktionから逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露(開示)だろうか! (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

……………


【享楽という原マゾヒスム】
真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
享楽はその根源においてマゾヒスム的である。(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)


たしかにすぐさまというわけにはいかなかった。1919年(フロイト63歳)においてもまだ次のように言っている。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。

…daß der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. (フロイト『子供が打たれる』1919年)


だが翌年以降、方向転回がある。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。

Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
マゾヒズムは三つの形態で観察される。①性興奮に課された条件として、②女性的本質の表現として、③生活態度の規範として。したがって我々は、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性愛的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(⋯⋯)

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の eigentliche、性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)
後に、心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)


【死の欲動一元論】

フロイトは上に引用したように、1924年には《(厳密さを期さなければ)有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致する der im Organismus wirkende Todestrieb –; der Ursadismus –; sei mit dem Masochismus identisch》と言っている。

こうしてラカンの欲動一元論が生まれる。

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

つまりエロス欲動もタナトス欲動も、実質は、死の欲動だと。



【喪われた対象の廻りの循環運動】

ラカンにとって死の欲動は、「喪われた対象 verlorene Objekt」(フロイトのモノdas Ding)の廻りの永続的な循環運動である。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)


【廃墟となった享楽】
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【享楽と去勢】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)



【享楽と死】
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


【享楽のさまよい(死のさまよい)】
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

……………



【幻想の式からエロトスの式へ】


何度か示している次の図は、上に引用したフロイト・ラカンの考え方の基本を、ーー精神分析に疎遠な人たちにでも可能な限り把握しうるようにーー図示したもので、これは「エロトスの式」と呼びうる。






エロトスとは荒木経惟の造語だが、ここでは【エロス/タナトス、融合/分離、引力/斥力、欲動混淆】の項で示した、エロスとタナトスの欲動混淆という意味で使う。

無意識の主体$がめざすAとは、究極的には「母」であるがーー《原大他者 Autre primitif は母》(ラカン、S4、06 Février 1957)ーー、フロイトのいう「母なる大地」「沈黙の死の女神」にしてもよいし、プルースト的に「時」としてもよい。

すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。

時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死 mort」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)

プルースト的体験と同質のものでありながら、標準的な人でもかならずあるだろう、より穏やかな吉行淳之介の文をも掲げておこう。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

いくらこういった瞬間が歓喜的で眩暈がするものであっても、時との融合が長引けば、堪え難くなり、分離欲動が生じる。これこそなによりもまず、引力と斥力(エロスとタナトス)の関係である。

無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

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現在のラカン派では、ラカン理論の核心(のひとつ)を現わすためには、ラカンが示した幻想の式 [$ ◊ a] では不十分だとされ、いくつかの修正版ヴァリエーションがある。

たとえば、こうである(ポール・バーハウによる)。





a/-φ とは次の意味である。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)


ポール・バーハウ2011はトーラス円図にても示している。





あるいはジャック=アラン・ミレール2011によるトーラス円図。



この図は、こう書き直せるだろう。





次のように示すラカン派もいる(David Hendrickx 、Freud and Lacan on fetishism and masochism/sadism as paradigms of perversion 、2017)。








上の図は、【母の去勢・去勢の原像】と【喪われた対象の廻りの循環運動】で示した出産外傷(フロイトは「原トラウマ Urtrauma」とも呼んでいる)を視野に入れたトーラス円図として読みうる。







すなわち母子融合状態にあった原享楽あるいは原エロスの状態(子宮内生活)が出産によって分離されて、$+a、Ⱥ+aとなる図である。あくまで架空の話としてだが、ラカンはセミネール10にて「享楽の主体 le sujet de la jouissance S」(原主体 sujet primitif)を語ることによって、上の David Hendrickxによるトーラス円図に還元できる内容を語っている(参照)。




トーラス円図の重なり箇所が、(a)とされたり、(a/-φ)とされたりするのは、主に、(a)の二重の価値にかかわる。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる「 le plus-de-jouir」の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

穴埋めのほうの plus-de-jouir についてはラカンはこう言っている。

剰余享楽 plus-de-jouir とは⋯⋯享楽の欠片 lichettes de la jouissanceである(LACAN, S17、11 Mars 1970)

したがってplus-de-jouirの両義性は次のように整理できる(いま上に記した内容とともに、すこし前の【享楽と去勢】項を参照のこと)。



穴埋め(コルク栓)という用語は、後期ラカンに頻出するのだが、いまは一文だけ掲げる。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

非全体(非一貫性)とはすなわち穴のことである。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

ーーミレールはここで「欲望の場処 le lieu d'un désir」としているが、最も肝腎なのは「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」の区別である。ここでミレールが言っているȺとは、「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」(享楽の対象 objet de jouissance)の側にあることに、くれぐれも注意しなければならない(参照:「欲望の対象」と「欲望の原因」)。

穴埋めに相当するほうの「plus-de-jouir」についてラカンはこうも言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

この「快の獲得 Lustgewinn」とは、「享楽欠如の享楽 jouir du manque à jouir」(コレット・ソレール、2011)に相当する(参照)。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」⋯⋯「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation »2013-2014セミネール)


ようするに剰余享楽(反復強迫=死の欲動)とは、穴の廻りの循環運動である(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)。

そしてフロイトによれば、この循環運動自体(「享楽欠如の享楽」運動)が欲動満足を生む。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

これが上に示した剰余享楽=快の獲得 Lustgewinn の真意である。はてしなく(endlessly)、無目的的な(end-less)な循環運動。これは、マルクスが「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」という表現で資本の欲動を言わんとしたことでもある。

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)

ラカンはこのマルクス的フェティッシュに相当するものを、「黒いフェティッシュ」とも呼んだ。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)

ーー《純粋対象 pur objet、黒いフェティッシュ fétiche noir.》(S10, 16 janvier 1963)


⋯⋯⋯⋯

あらためていうまでもないかもしれないが、ここで記された内容は、エスにかかわる話であり、自我にかかわる話ではないことを強調しておく。

エスの力能 Macht des Es は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安Angst の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事 Aufgabe des Ich である。…

エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

自我のレベルでは誰でも「あたしはそんなことはけっしてないわ」と思っているのである。

⋯⋯⋯⋯

ところで冒頭近くに掲げた安永浩と中井久夫の「ファントム空間」図ってエロいなあ、眺めれば眺めるほどそう思えてきた。


ーーああ、ああああ、パックリ母だあああ。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)



だいたい中井久夫の文読んで、「エロトス Erotos」感じないやつって不感症だと思ってるけど。→「五月のたわわな白い花のすこしただれたかおり

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)