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2018年7月6日金曜日

享楽欠如の享楽

(ラカンが主に云う)享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象a の享楽と等しい。対象a は、象徴界に穴を引き裂く現実界の残余である。大他者のなかのリアルな穴(Ⱥ)としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全リアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如の享楽のみを意味する。というのは、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンゾ・チーサ、2007, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

《享楽とは対象a の享楽と等しい》《剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如の享楽のみを意味する。というのは、享楽するものは他になにもないのだから》とあるが、これは対象a(喪われた対象)の周りの循環運動のこと。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

つまりなんらかの対象を享楽しているのではなくて、循環運動を享楽しているということ。

ここでジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)を掲げる。




主体と言存在が対立されて記されているが、言存在とは次の内容である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(同ミレール 2014)

ミレールは上の図で「享楽」と「欲動」を右側の項に等置しているが、これは簡略化のためであり、実際上は、欲動とは享楽の漂流のことである。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

したがって次のコレット・ソレールの「享楽欠如の存在」という表現が上の図の内容をより正確に示している。

parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

享楽の不可能性については、次のラカンによる図(セミネール20)が明示している。




これは享楽が不可能だから剰余享楽が生じ、循環運動が生じることを示している。

(ラカン、セミネール19)

⋯⋯⋯⋯

享楽欠如概念はラカン自身のものである。

この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

そして、享楽欠如の享楽とは、フロイトの「快の獲得」のこと。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

フロイトの「快の獲得」概念は、1905年の『機知』論文に初めて出現するが、ここでは最晩年の叙述を抜き出す。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

《栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたもの》とあるが、これが上に引用したラカン曰くの《享楽欠如の拡張生産》にかかわる。

核心はマルクスである。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

実際のマルクス用語なら、マルクス的快とは、「自動的フェティッシュ automatische Fetisch」のこと(参照)。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld,……(マルクス『資本論』第三巻)

日本では、松本卓也氏がミレールに依拠して「一者の享楽」、 「身体の自動享楽」(=自閉症的享楽) 等を強調しているようだ’。しかも河野 一紀氏による書評には、《死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行―を著者はとりわけ強調する》とあるが、これはまったくイミフである。ラカンの享楽概念の骨抜きとしかわたくしには考えられないーーようするに「超訳ニーチェ」のたぐいの現代的症状、ラカン的には「資本の言説」の時代の病い(去勢の排除)であるーー 。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー資本の言説と〈私〉支配の言説)

わたくしはこの資本の言説を、別名「ボク珍の言説」と呼んでいる。これはラカンのボククラシー[je-cratie]の言い換えである(ボククラシー[je-cratie]とは、デモクラシー(大衆支配)の変奏であり、ボク支配のこと)(参照:他者の他者性)。

もしかりに松本氏が《制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行》などとマジで主張してるのなら、ボク珍の言説のドツボである・・・だが『享楽の社会論』未読の身なので、あまり強い批判はしないでおこう。

いずれにせよ、わたくしの観点では、「一者の享楽」とは、「享楽欠如の享楽」「マルクス的快」にすぎない。

後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001, pdf)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011 )

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以下、 「若手ラカン派の新しい世代のリーダー」ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa だけではなく、ラカン派重鎮のポジションにあるコレット・ソレールとピエール・ブルノによる「享楽欠如の享楽」を引用しておく。

・享楽と満足はとても異なった概念です。享楽は身体を想定しています。満足は、この身体をもった主体の現象です。一般的に、享楽は満足しません。享楽は苦痛と関係さえします。不調和・不満足なのです。 というのは、享楽は大他者とのつながり( lien avec l'Autre) がありませんから。それは(大他者から)自ら分離さえします(sépare meme)。

・欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 (manque à jouir)です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 (objet originairement perdu)」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a(objet a, en tant qu’il manque)」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) が可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

・次のことを理解することが必要不可欠です。定義上、欲望は構造的欠如・言語の効果に基盤があります。したがって欲望は享楽向かって方向づけられています。欲望は享楽を目指すのです。享楽は欲望を繋ぎ留めています。いかに欲望の渇きを満たすことがなくても。

・我々は、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません (Il faut en finir avec l'opposition binaire désir/jouissance)。確かに、欲望なき享楽 (jouir sans désirer) は可能です。そして享楽なき欲望 (désirer sans jouir )さえ可能です、もし欲望が単純に欠如の享楽(jouissance du manque) ではないなら。しかしながら、すべての欲望は欠如の補填( complément de son manque)に向かいます。

・「欲望は大他者の欲望 (Le désir est désir de l'Autre)」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 (effet de l'opération du langage) だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける (évide le réel, y fait trou)。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません( le désir n’est pas désir de l’Autre)。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵の発見は、次のことを認知を意味する。すなわち剰余享楽の必然性が、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていること。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望 la soif du manque-à-jouir への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(Pierre Bruno、capitalist exemption、2016)