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2018年7月6日金曜日

三という数字のルール

三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

これは女だけの話ではない。最も卑近な例で言ってもよい。たとえば美食。当地はウニが容易には手に入らない。ああ、ウニが喰いたい。日本から輸入して一箱手に入れたことがある。最初の日はすし飯にのせてたらふく食べた。ところが次の日には美味度が格段に落ちる。三日目にはウンザリした。結局、三週間に一度くらい、小粋な寿司屋のカウンターで握り二つほどを食すからこよなく旨いのだ。

最も基本的な意味での快不快原理の彼岸の考え方もここにある。

厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求 Bedürfnisse が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的 episodisches な現象としてしか存在しえない。快原理 Lustprinzip が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

この世の何だって耐えられる
楽しい日々が続く以外は。
Alles in der Welt lässt sich ertragen,
Nur nicht eine Reihe von schönen Tagen.

ーーゲーテ「格言風に Sprichwörtlich」


人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。

この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志 Willens zur Macht の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番)


こういった基本的な考え方から、苦痛あるいはマゾヒズムという考え方が芽生えて来る。

享楽(悦楽 Lust)が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)


Paul Rée, Lou Andreas-Salomé、1882


ーーサロメが手にもつ小さなムチは、けっしてジョークではないのである。

フロイトやラカンの核心は、上にかかげたニーチェ文にすでにある。

不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)

ーーdéplaisirとは、快原理(象徴界)の非全体pastout(非一貫性)の裂け目に外立(脱自)する快である。外立ーー、《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(ラカン、S22)、ハイデガーの《エク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)・エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen(エクスタシー的開け)》である。

現実界の享楽 Jouissance du réel は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel (Lacan, S23, 10 Février 1976)
われわれは、催淫的マゾヒズム(性欲を刺激するマゾヒズム)、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen Masochismus を区別することができる。最初の催淫的マゾヒズムはーー苦痛のなかの快 Schmerzlustーーは、後者二つの底に横たわっている。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924)

ーーすなわち、女性的マゾヒズムfeminine Masochismus の底、いやすべてのマゾヒズムの底には、催淫的マゾヒズム erogenen Masochismus、苦痛のなかの快 Schmerzlust がある。

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)

ここまで引用してきたように、ラカンは「享楽」という用語をこのようにも使っている。これらは事実上、原享楽・不可能な享楽の剰余の享楽であり、究極の享楽は死のことであるのは(すくなくともわたくしの観点からは)変わりがない(参照:「死とは享楽のこと」、「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」)。


(ラカンが主に云う)享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象a の享楽と等しい。対象a は、象徴界に穴を引き裂く現実界の残余である。大他者のなかのリアルな穴(Ⱥ)としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全リアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如の享楽のみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンゾ・チーサ、2007, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)


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※付記

快および不快 Lust und Unlustの感覚は、拘束された gebundenen 興奮過程と、拘束されない ungebundenen 興奮過程と、二つの興奮過程からおなじように生み出されるのであろうか。それならば拘束されていない ungebundenen 一次過程 Primärvorgänge が、拘束されたgebundenen 二次過程 Sekundärvorganges よりも、はるかにはげしい快・不快の二方向の感覚を生むことは、疑いをいれる余地がないだろう。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)
罪責意識、処罰要求…これらは超自我に心的に拘束 gebundenされており、故にわれわれに知られるようになる部分にすぎない。この同じ力 Kraft のその他の部分は、どこか別の特定されない領域で、拘束された形式あるいは自由な形式 gebundener oder freier Form のいずれかの形で働いているのかも知れない。

このような現象として多くの人に認められる内的マゾヒズム immanenten Masochismusの現象…がある。こうしてわれわれは、心的過程が快の追求 Luststrebenによってのみ支配されるという信念をもはや放棄しなければならない。

これらの現象は、われわれがその目的にしたがって、攻撃欲動または破壊欲動と呼んでいるような、生命体に最初から存在している根源的な死の欲動 ursprünglichen Todestrieb の力能 Macht が、心的生活の中に存在しているという事実を示す指標なのである。…エロスと死の欲動という二つの原欲動 Urtriebeが結合したり対立したりして作用する Zusammen- und Gegeneinanderwirken という考え方だけが生命現象の多彩さBuntheit der Lebenserscheinungenを説明するものであり、けっしてそれらの一方だけをもってこれを説明しうるものではない。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない ungebändigten「欲動蠢動Triebregung」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)