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2018年7月5日木曜日

チャットルームの現実界

いやあ、「女は、耳で考え言葉で誘惑される」では敢えて引用しなかったけどね。このふたつの文の補足として。

女は男よりも、遥かに「言語のなかに」いる。woman is more fully “in language” than man. (ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ2004、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、Paul Verhaeghe)


これはジジェクがかねてから繰り返して強調してることだよ。最もよい例はチャットルームだな。

男たちはサイバースペースを自慰装置として使う傾向がずっとあるだろ、孤独な遊戯としてね。愚かな反復的な快楽に耽るためにさ。逆に、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとあるよな、サイバースペースを誘惑の会話交換として、な。

この例というのは決定的なんだよ、標準的なラカンの誤読を取り扱うのにね。その誤解というのは女性の享楽というのは会話を超えた神秘的な至福、象徴秩序から逃れた領野にあるっていうヤツだ。まったく反対さ、女たちは例外なしに会話の領野に浸かり込んでいるのさ。(ジジェク、性差の現実界 THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)


これを否定できるかい?

もっともエディプスの斜陽の時代は男も女性化の時代だけどさ、どこにもかしこにも父性隠喩が不成立な手合いばかりだからな。つまり「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった連中は、「母に欠けたファルスになること être le phallus qui manque à la mère ができないならば、彼には、男に欠如している女になるという解 solution d'être la femme qui manque aux hommesが残されている」(E566)というわけだ。

そうはいっても、オンナのほうがずっとイダイだね

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

ーーってのは次のことだよ

女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)
人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)

で、ニーチェは、女性のみなさん、あるいはフェミニストのみなさんにこう問いを発している。

最後に私は問いを提出する。女自身は、女性の心は深い、あるいは女性の心は正しいと認めたことがかつて一度でもあったのだろうか? そして次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)