2018年7月3日火曜日

女は、耳で考え言葉で誘惑される

ツイッターのゴダールボットにこうある。

ぼくは最近、自分の映像史についてこう考えるようになった。それは、ひとは決してまず最初に映像を見ようとはしないということ、ひとがまずはじめに見るのは二番目に来るもの、テキストの方だということだ。 (ゴダール)

どういう状況でいつ言われたのかは調べないまま言うが、 イマージュを見ようとしていないゴダールファンというのは、あまたいるね。人のことは言えないが。

結局、言葉に囚われてイマージュをまともに見ていないんだ。

私の敵は、映像を役立てようとしない人たちです。あるいはまた、映像を、提示するためよりはむしろ隠すために役立てようとする人たちです。 (同ゴダールボット)

ーーこれは、トリュフォーの『アメリカの夜』批判や、ランズマンの『ショアー』批判にて、似たようなことが言われている。

くりかえせば、ボクもこの例外ではまったくない。そうはいっても、女性のゴダールファンの多くは実にイマージュをみていないんだな、とつくづくそう思わざるをえないときがある。

ゴダールのイマージュを、こよなきナルシシストとしてしか見ていないんだ。

愛するということDas Lieben、…その基本的状況とは、自分自身を愛することsich selbst liebenであり、これはナルシシズムの特性 Charakteristik des Narzißmus にほかならない。…(フロイト『欲動とその運命』1915)
愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)


男だって退行して井戸の底におりれば、ナルシシストなんだろうけどさ。

愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。(フロイト『欲動とその運命』1915)


とはいえ女のほうがナルシシスト的に、たとえば愛なるものをこねまわす傾向ははるかに強い。

愛はその対象よりも先に生まれなければならない。愛それ自体が対象をでっちあげる。(ジョー・ブスケJoë Bousquet『傷と出来事 Mystique』)

なぜ、あんなに映像作品のなかの言葉や詩を信用してしまうんだろう?

《女は男よりも、遥かに「言語のなかに」いる。woman is more fully “in language” than man. 》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑され。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ2004、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、Paul Verhaeghe)