核はエディプス理論における「父との同一化」と「サントームとの同一化」の相違だね。
エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。
これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)
※ラカン自身の発言は、 「母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって)」を見よ。
この点のおけるエディプス理論の相違は、フロイトにおいては原初のトラウマ的母子関係から幼児が距離をとる方法は、「原父」や「生身の父自身」だが、ラカンは象徴的な「父の機能」としたこと。原初の母子関係がトラウマ的なものであるのは二人とも同じ。
原初の母子関係がなぜトラウマ的で距離を取らなくちゃいけないのかは、二者関係的だから(幼児は必ず受動的立場に置かれ、能動性=主体性が確保できないから)。
中井久夫はこの二者関係的な状況を母権宗教を例に出し「(母なる)オルギア(距離のない狂宴)」(「母子の時間 父子の時間」2003年 )と呼んでいる。
このオルギア的状況は、ラカンにおいては次のように表現されている。
父の機能とは、この二者関係から距離を取る機能のこと。
ラカン自身から引用すれば、次の文が代表的なもの。
後期ラカンにおいてもこれは同じ。サントームとは「リビドー固着」と「固着から距離を取る」という二つの意味合いがあるが、後者の「距離をとる」という意味でのサントームは、父の機能のこと。
まずサントームの第一の意味。
ーー今ミレールを引用したが、「身体の出来事」とはラカン自身の表現であり、フロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』1916)の「翻訳」である。
サントームの第二の意味。
ラカン派では、この父の機能として「父の苗字」ーーまさに父の名ーーでさえ最低限の役割を果たすという話もある。母子家庭でもたとえば「祖母」がいれば、祖母が父の機能(二者→三者)を果たしうる。もしこういった父の機能がなかったら、論理的には幼児は精神病者か倒錯者になる。
原初の母子関係についてもう少し引用すれば、フロイト・ラカンは、例えば次のように表現している。
過激系の表現なら次の通り。
パックリ母を穏やかに表現すれば次の通り。
ま、ようするに密室的な母子関係における母とは穴だな、ブラックホールだ。
何度も示しているがボロメオの環の「真の穴」の場(現実界と想像界との重なりの場)が、母への固着を示す場。
ーー大きなファルスΦ の機能(父の機能)や小さなファルスφ の機能(フェティッシュの機能)があったって、傍らに去勢 -φ を備えた穴∅ の残滓はあるんだ、必ず。
「男女の症状」で記したように、標準的な女はこのパックリ母との同一化があるわけで、男にとって女性恐怖は必然的現象だよ。ようするに全能の《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4)なんだから。
原初の母子関係がなぜトラウマ的で距離を取らなくちゃいけないのかは、二者関係的だから(幼児は必ず受動的立場に置かれ、能動性=主体性が確保できないから)。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
中井久夫はこの二者関係的な状況を母権宗教を例に出し「(母なる)オルギア(距離のない狂宴)」(「母子の時間 父子の時間」2003年 )と呼んでいる。
このオルギア的状況は、ラカンにおいては次のように表現されている。
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである (Lacan、S5、22 Janvier 1958)
父の機能とは、この二者関係から距離を取る機能のこと。
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
ラカン自身から引用すれば、次の文が代表的なもの。
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
後期ラカンにおいてもこれは同じ。サントームとは「リビドー固着」と「固着から距離を取る」という二つの意味合いがあるが、後者の「距離をとる」という意味でのサントームは、父の機能のこと。
まずサントームの第一の意味。
サントームは「身体の出来事」として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)
ーー今ミレールを引用したが、「身体の出来事」とはラカン自身の表現であり、フロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』1916)の「翻訳」である。
固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。原症状(サントーム)は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。( Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , 2002)
サントームの第二の意味。
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームと定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
ラカン派では、この父の機能として「父の苗字」ーーまさに父の名ーーでさえ最低限の役割を果たすという話もある。母子家庭でもたとえば「祖母」がいれば、祖母が父の機能(二者→三者)を果たしうる。もしこういった父の機能がなかったら、論理的には幼児は精神病者か倒錯者になる。
原初の母子関係についてもう少し引用すれば、フロイト・ラカンは、例えば次のように表現している。
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。(フロイト『女性の性愛』1931年)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
過激系の表現なら次の通り。
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまうumgebracht(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
母とは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。…あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
パックリ母を穏やかに表現すれば次の通り。
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, 1995, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)
ま、ようするに密室的な母子関係における母とは穴だな、ブラックホールだ。
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
何度も示しているがボロメオの環の「真の穴」の場(現実界と想像界との重なりの場)が、母への固着を示す場。
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1991年)
(「三プラス四」) |
ーー大きなファルスΦ の機能(父の機能)や小さなファルスφ の機能(フェティッシュの機能)があったって、傍らに去勢 -φ を備えた穴∅ の残滓はあるんだ、必ず。
「男女の症状」で記したように、標準的な女はこのパックリ母との同一化があるわけで、男にとって女性恐怖は必然的現象だよ。ようするに全能の《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4)なんだから。
偉大なる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(カミール・パーリア Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)
これに気付いていない連中ってのは、たんなる不感症なだけさ。
「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)