ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。(中井久夫「ボランティアとは何か」初出1998年『時のしずく』所収)
「名付け」による対象化の過程は「自極」の成立の過程でもある。また「名付け」は他者から与えられる。「自己は他者からの贈り物である」という新トマス学派ののカトリック哲学には聴くべきところがあると私は思う(エミール・ブレイエによる紹介の、記憶による引用)。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
この「他者からの贈り物」が、フロイト、ラカン派における「同一化」の最も基本的な意味である。そして幼児にとって最初の他者は、母もしくは母親役の人物であり、母からの贈り物が、人間にとっての根源的なものである。
同一化には、前エディプス期の同一化とエディプス期以降の同一化がある。
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。
どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における結びつき(拘束 Bindung)が女性の未来にとって決定的である。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年)
上の文は女性の例が記されているが、前エディプス期の母との同一化については、男性も同様。
男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。
女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
この後、通常の発達においては、男性の場合、エディプス期以後の「父との同一化」、女性の場合、上にあったように「母との同一化」(母の場との同一化)がある。
父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1939年)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
女性の場合、この「母の場との同一化」によって、表面的にはマザーコンプレクスから逃れられる。あくまで表面的であり、フロイトは後の生において前エディプス期の「母との同一化」が現われるとは言っているが。
前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母との結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。女性の性生活の多くの現れは、以前には十分には理解されていなかったが、前エディプス期までに遡ることによって完全に解明することができるようになった。
われわれがたとえばもうとっくに気づいていたことであるが、多くの女性は父をモデルにして夫を選んだり、夫を父の位置に置き換えたりしておきながら、現実の結婚生活では、夫を相手にして母に対する好ましくない関係を反復している schlechtes Verhältnis zur Mutter wiederholen のである。夫が妻の父から相続するのは父への関係であるべきであろうのに、実際には母への関係を相続しているのである。
これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係のほうが根源的 Mutterbeziehung war die ursprünglicheであり、そのうえに父との結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが、いまや結婚生活において、この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替えÜberschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
ーーこれは現在でもしばしば観察されることだろう。
他方、前エディプス的母への固着が継続する精神病者・倒錯者だけではなく、標準的な神経症者として「父との同一化」をする男性においても、多くの場合、母への固着は居残ったままであり、マザコン(母拘束 Mutterbindung)から逃れえない。
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
quoad matrem(母として)、すなわち《女というもの la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1991年)
「母との同一化」と「父との同一化」以外の主要な同一化は、「唯一の徴との同一化」である。
(或る場合の同一化は)、対象人物 Objektperson の唯一の徴 einzigen Zug だけを借りていることも、われわれの注意をひく。⋯⋯そして、同情(共感)は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
個人的な質問から始めさせて下さい、「あなたとは誰?」と。これは昔からある問いです。そしてことさら現代では、答えるのにとても難しいものです。どうして難しいのかといえば、アイデンティティとはどのようなものかについて、全く間違った考え方が見出されるからです。数多くの歴史的理由で、私たちは考えています、私たちのアイデンティティとは、なにか実体的なもので、私たちのなかに深く根ざしたほとんど不変のエッセンスのようなもの、生得の、遺伝的等々の何かだと。私は最初から私自身であり、その後いささかの変化はあるにもかかわらず、私は、生涯、私自身のままだろう、と。
これは完全に間違っています。あなたはその考えから、出来るだけはやく逃れれば逃れるほどよいでしょう。これが間違っているのを明らかにする最も簡単な仕方は、養子について考えてみることです。インドのラジュスタンで生まれた女児で、スウェーデン人の親によってウプサラで育ったのなら、スウェーデンの女性になります。同じ子供がフランス人の親の養子になりパリで育ったのなら、パリジェンヌになります。逆もまた真です。もしあなたが、赤子として、スーダンのムスリムカップルによって養子にされてハルツームで育ったのなら、あなたはスーダンのアイデンティティをもつようになります。つまり、あなたはまったく異なった誰かになります。
結論としては、アイデンティティとは構築 construction に帰着するのです。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2013年)
※上のバーハウ文の続きは、「アイデンティティ(同一化と分離)をめぐって」を見よ。