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2019年1月8日火曜日

女性の享楽は享楽自体のこと

そうだな、たとえば「女性の享楽」について「佐々木中のボロメオの環」の末尾に引用したがね、アタルはしょうがないよ、時期的に。でも、次のようなことがすでに10年近く前からに言われているのに、現在でもそれに完全な無知のまま戯言鳥語をまき散らしているチバってのは、こよなく劣化した「思想家」と判断せざるをえないね。

以下の考え方を受け入れるか否かは別にして、この今でも、それに対して批判的に言及することもまったくなく、ナイーヴに「女性の享楽」語っているわけだからな。たんなる社交装置ツイッターでのことであれ。あの装置が悪いんだよ。人を知的に退行させる装置。「インテリ」を「大衆」という無知組のなかに安住させる装置。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)
大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。…いまや、人がある記号を口にするのは、それを他人に先がけて知ったという特権意識からではない。発信と受信とが知の欠落を埋めるというかたちでは進行せず、すでに充当されている知をめぐって、それが内容を欠いているが故にすでに流通している交換の体系に一体化しようとする欲望を共有するための資格として、それが口にされているにすぎない。これは倫理的な価値判断の介入する余地のない新たなコミュニケーションの一形態であり、それに共感を覚えると否とにかかわらず、人はそれととともに暮らさざるをえない時代に生きている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

というわけで、鳥語機械とは「記号の記号」装置であることは、人は実は(すくなくとも無意識的には)誰もが知っている筈である。そしてあの機械は「凡庸な知識人の肖像」を至るところに生み出す。

なにはともあれ、おそろしく劣化している日本共同体の精神分析的知に依存した、真に問い詰める試みをまったくしていないボウヤだな、あいつは。彼は忙しいのだろうからそんな暇はなく、そのあたりの三文解説書のみを前提としているんだろうがね。


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以下、「女性の享楽」について、可能な限り簡潔に記す。この内容を前提とすれば、過去に(いや現在でも)日本言論界において語られている「女性の享楽」ーーあるいはひょっとして「享楽自体」や「現実界」でさえもーーは、ほとんどすべてが誤謬でありうる。あくまで以下の内容を受け入れるならば、であるが。

ラカン臨床主流派のボスーーフロイト大義派(Ecole de la Cause freudienne)の首領ーー、ジャック=アラン・ミレールは「女性の享楽とは享楽自体のこと」と2011年に明言している。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

わたくしが(このところ)「女性の享楽」をめぐって記すときは、このミレールの明言にほぼ準拠している。他方、ファルス享楽、つまりファルス秩序(言語秩序)における享楽は、事実上は、享楽ではなくファルス欲望あるいはファルス快だという判断をしている。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ファルス享楽とは、フロイトのいう「語表象Wortvorstellung」に結びつけられた快原理内の快にかかわるのである。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

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もっとも象徴秩序(ファルス秩序)のなかには現実界の機能(テュケー)がある。

シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それがオートマトン αύτόματον [ automaton ]であり…他方、テュケー τύχη [ tuché ]は現実界との出会い rencontre du réel と定義する。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
テュケーtuchéの機能、出会いとしての現実界の機能fonction du réel ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。(ラカン、S11、12 Février 1964)

ここでのオートマトンは見ての通り、象徴界のなかの自動連鎖(機械)という意味で、晩年のラカンの《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(S 25, 10 Janvier 1978)という意味でのオートマトンとはまったく異なる。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

ラカンが上のように言うときは、フロイトの《反復強迫 Wiederholungszwang》(死の欲動)、あるいは身体の《自動反復 Automatismus 》のことである(参照)。

現在、主流臨床ラカン派では「二つの現実界」ということが強調されている。それは1975年「サントーム」のセミネールでラカンが示した二つの穴に直接的にかかわる。




現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)


以下、現実界①と現実界②として記述する。



現実界①とは、象徴界(シニフィアンのネットワーク)のなかの自動反復(オートマトン)の裂け目に、偶然として不可能な現実界との遭遇があるということである。フロイトの「自由連想」もこの審級にある。科学的現実界も同様。

現実界②とは、フロイトの反復強迫のことである。この反復強迫は、リビドー固着(身体の上への刻印)による自動反復である。フロイトは「トラウマへの固着」とも呼んだ(参照:リビドーのトラウマへの固着)。

ミレールによる次の文における「反復」を「オートマトン」に置き換えて読めばここで言っていることが瞭然とするだろう。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

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さていくらか寄り道したが、今、上に記した意味では、ファルス欲望のなかには偶然の出会いとしての享楽=現実界がある、とは言える。《享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. 》(ラカン、S23, 10 Février 1976)。したがって用語的には、ラカンが示した通りの「ファルス享楽」でも矛盾はない。

とはいえこうなのである。



ファルス享楽が欲望の審級にあり、女性の享楽が真の享楽であるとすれば、ファルス享楽とは、女性の享楽に対する防衛だということになる。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)


何度も掲げている図だが、「ファルス欲望」を挿入して示しておこう(下段はミレール2005セミネール冒頭)。




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以下、補足。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。これは欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事とは、ラカン自身の用語である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーここでの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のこと。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, 30 mars 2011)。

そしてサントームとは、原症状のことであり、フロイトの「リビドー固着 Libidofixierungen」と等価。それは「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」で念入りに記した。


ミレールをもうすこし続ける。

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

享楽=自体性愛とする以外に、享楽自体が、《自閉症的享楽 jouissance autiste》(ラカン、S10)ーー自己状態の享楽ーーともされるが、その理由は、フロイトの次の文が示している。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

ーーこれをラカンは《「非二 pas deux」=「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」》 (S19、1972)とした。

セミネール11からセミネール20までの論理的現実界、科学的現実界のラカンがある。たとえば次のように言ったラカンが。

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

だがセミネール20「アンコール」の最後には裂目があるのである。ミレールはあの名高い「性別化の式」の価値下落、つまり性別化の式自体、ファルス秩序に支えられた思考であり、最晩年のラカンの思考とは異なると2012年に指摘しているが、たしかにそう捉えないと現実界②は理解しがたい。

とはいえここではそれについては深入りせず(参照)、以下の文のみを掲げておこう。

フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

《欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 》という文は、『不気味なもの』の《快原理を超越 über das Lustprinzip する⋯⋯内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang》と「ともに」読むことができる。

心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

この快原理の彼岸にある不気味な内的反復強迫が、身体の享楽=女性の享楽の実質的意味である。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)


ポール・バーハウは既に1999年の時点でこう記している。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは「他の享楽」(女性の享楽)に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

この観点からは、チバが新著にも記しているらしい(よく知らないがたぶんそうなんだろう)、不気味なものの思考は完全な誤謬である。

女性の式については「すべてではない(not-all)」という独特の概念をラカンは提示しています。

不気味でないものは、「すべてではないもの」である。 …(千葉雅也「「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」10plus1、2016/12

そもそも次の二文を知っていれば、こんなこと言える筈はないんだな。

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、1976、 AE573)

※参照:不気味なもの界


だから、チバは浅墓な知識で「ボクのラカン」を語っているだけだという判断をオレはしているね。浅田彰が《國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。⋯⋯「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった》(参照)と言っているが、ま、同じレベルの話だな。


さてここまで記したことで分かるように、「女性の享楽」の「女性」とは、原則としては「イマジネールな女性」には関係がない。だが解剖学的女性にこの不気味なものがより多く現れるのも確か。 それについては、一例として「子宮という自動反復機械」で示した。

以上