そもそも彼らは、最も基本的な問いが欠けているんじゃないか? それは、フロイトの「快原理の彼岸」とラカンの「ファルス享楽/女性の享楽」はどう関わるのか、という問いだ。ラカンはフロイトの快原理の彼岸のまわりを常に廻っている思想家なのに。
なによりも先ず、人間には心と身体しかないんだ。そうだろ?
(心は身体に対する防衛である) |
で、心的なものである欲望とは、身体的なものである欲動の「心的被覆 psychischen Umkleidungen」(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)、あるいは《 l'enveloppe formelle 形式的封筒 》(ラカン、E66、1966)だ。
だから、ファルス享楽とは「心による享楽」だよ。これは別の言い方をすれば「言語に囚われた享楽」。
「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )
ーーようするにファルス秩序(象徴秩序)は言語秩序である、ということだ。
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
フロイト文脈でいえば、ファルス享楽は言語内の享楽なのだから、フロイトの定義上、語表象(シニフィアン)に結びつけられた享楽ということだ。
※語表象 Wortvorstellung については、「ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」」を見よ。
したがってファルス享楽とは、フロイト用語では「ファルス快楽」だ。
これは、ジジェク が「奇跡的」と書評したバーハウ1999に既に簡潔明瞭に記されている通り。
フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
ファルス快楽は、ラカンの言う「欲望は享楽に対する防衛」に則って、「ファルス欲望」としたっていい。したがってファルスの彼岸にある「他の享楽」=「女性の享楽」が、本来の「享楽」用語、あるいはフロイトの「欲動」用語に相応しい。
これがミレール が次のように言っていることだ(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。
…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会い(テュケー)とは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」(セミネール11)である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
この文脈における右側にあるオートマトンとは現実界の自動享楽のこと。
この自動享楽が次の二文の意味だ(参照)。
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
このオートマトン(自動性)は、セミネール11における象徴界のオートマトンではぜんぜんない。ところが大半の連中はいまだセミネール11どまりのまま。
この身体の自動享楽=オートマトンとは、フロイトの「Automatismus 自動反復」のことだ。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
この身体の自動享楽=オートマトンとは、フロイトの「Automatismus 自動反復」のことだ。
フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。
そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)
⋯⋯⋯⋯
さて何度もかかげている「ファルス享楽」とファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」の定義だが、再掲すれば次の通り。
ーー何度も繰り返しいるが、いままでは「大他者の享楽」と訳されてきた "jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。
もう二文掲げとくよ。
ここまでで、他の享楽=身体の享楽=女性の享楽であるのが分かるだろ?
フロイトは1915年にはこう言っている。
だが最晩年のフロイトにとっての欲動は、境界概念よりもいっそう身体に接近していく。
これが、上に引用したミレールが後期ラカンの核心として強調している、フロイトの言葉の捉え方だ、《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》(『制止、症状、不安』1926年)
ここまで記したことでわかるように、ファルス享楽は快原理内の快楽であり、他の享楽とは快原理の彼岸にある「不気味な」反復強迫的欲動ということだ。
以上、「女性の享楽」の最も基本的な前提はこれだ。もし人が解剖学的「女性」の享楽を思考することがあってもーーボクはときにそうしているがね、たとえば「ワルイコのための「享楽」」ーー、この前提なしで女性の享楽を思考することは不可能。
さて何度もかかげている「ファルス享楽」とファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」の定義だが、再掲すれば次の通り。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ーー何度も繰り返しいるが、いままでは「大他者の享楽」と訳されてきた "jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。
もう二文掲げとくよ。
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ここまでで、他の享楽=身体の享楽=女性の享楽であるのが分かるだろ?
君の好きな「女性の享楽」用語を使って言えば、女性の享楽とは「言語外の身体の享楽」だよ。
フロイトは1915年にはこう言っている。
欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
だが最晩年のフロイトにとっての欲動は、境界概念よりもいっそう身体に接近していく。
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)
これが、上に引用したミレールが後期ラカンの核心として強調している、フロイトの言葉の捉え方だ、《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》(『制止、症状、不安』1926年)
ここまで記したことでわかるように、ファルス享楽は快原理内の快楽であり、他の享楽とは快原理の彼岸にある「不気味な」反復強迫的欲動ということだ。
この図の下段に上に掲げたミレール2005をくっつけたらピッタリくる。
さらに冒頭近くに引用した1999年、ポール・バーハウ文を再掲しておくよ。20年前のね。
フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
で、『快原理の彼岸』の前年に上梓された『不気味なもの』といっしょに読むことだな、この文を。
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
以上、「女性の享楽」の最も基本的な前提はこれだ。もし人が解剖学的「女性」の享楽を思考することがあってもーーボクはときにそうしているがね、たとえば「ワルイコのための「享楽」」ーー、この前提なしで女性の享楽を思考することは不可能。