ボクは彼の書を読んでいないからあまりエラそうなことを言いたくない。けれども頂いた二つの図をみるかぎり、現在の主流臨床ラカン派観点からみれば、いささかの問題があると考える。すくなくとも三人の臨床家(ジャック=アラン・ミレール、コレット・ソレール、ポール・バーハウ)を読むかぎりではそう感じる。
ーーこの図表については、大他者の享楽が斜線を引かれていないこと以外は問題はない。ラカンにおいては、JAからJȺへの移行がサントームのセミネール23にてある。
これを示していないこと以外は大きな問題はない。だが次の図の解釈は、剰余享楽についての混乱があるーーこの図をみた限りだがーーとわたくしは考える。
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
これを示していないこと以外は大きな問題はない。だが次の図の解釈は、剰余享楽についての混乱があるーーこの図をみた限りだがーーとわたくしは考える。
現在ラカン派の解釈では、le plus-de-jouirは次のように図示しうる意味内容をもっている。
ーーより詳しくは、引用の仮置き場に記してある。→「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。
・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (miller, 9 du 30 mars 2011)
おそらく佐々木中の解釈は主に、アンコールまでのラカンであり、 他方、現在のミレールやソレール等はアンコール以後にラカンは変貌したという立場によって貫かれている(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。
たとえば「女性の享楽」概念が明示的に提出されたアンコールセミネール20における「性別化の式のデフレーション」をミレールは指摘している。
ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。
ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。
(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
実際、この立場をとらないと、晩年のラカンの言明は理解しがたい。
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)
すなわち、身体の出来事(固着としてのトラウマ)の原症状は書かれることを止めない、となる。
この症状は、ひとりの女=他の身体の症状でもある。
次の四文はほとんど同じ意味をもっていると捉えうる。
ーーラカンの言う「異者としての身体」とは、フロイトによるリビドー固着の残存物(異物)のことである(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。
穴とは《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21,1974)のことである。
他の身体の症状とは、他の享楽(=女性の享楽)にかかわる。
ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴(トラウマ)を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ーーラカンの言う「異者としての身体」とは、フロイトによるリビドー固着の残存物(異物)のことである(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。
穴とは《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21,1974)のことである。
他の身体の症状とは、他の享楽(=女性の享楽)にかかわる。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ーーいま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。
アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas は、次のように記しているが、これは現在の(まともな)臨床ラカン派のほぼコンセンサスであるようにみえる。
女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。
女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
これらから分かるように、上に引用したミレールの「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」(自閉症的享楽)=「女性の享楽 jouissance féminine 」と解釈されているのである。
(女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽) |
このサントームの享楽をミレールは中毒の享楽(身体の自動享楽)とも呼んでいる。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
さらにミレールはこうも言っている。
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
ここでのトラウマとは言語外のものを示す。そして言語外の享楽が女性の享楽である(言語内の享楽がファルス享楽)。
「同化されない」の意味は、ラカンはセミネール11の時点ですでに語っている。
《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。
したがって現在ラカン派の考え方においては「トラウマへの固着」による反復強迫が女性の享楽である。
フロイト用語でいえば、女性の享楽は外傷神経症と等置しうる(参照:リビドーのトラウマへの固着)。
ミレールの言う《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé 》( J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)とは、この文脈で捉えうる。
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
したがって現在ラカン派の考え方においては「トラウマへの固着」による反復強迫が女性の享楽である。
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
フロイト用語でいえば、女性の享楽は外傷神経症と等置しうる(参照:リビドーのトラウマへの固着)。
ミレールの言う《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé 》( J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)とは、この文脈で捉えうる。
(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999) |
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽の理解にとって、これがすべてではないにしろ、多くのことがこの図式を基準にすれば鮮明になる。
彼の構造的トラウマ論からも引用しておこう。
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。
構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)
⋯⋯⋯⋯
佐々木中の議論は約10年前のものであり、ソレールがラカンの変貌を強く主張しだしたのは、2009年である。時期的にある程度の誤謬はやむえないし、ひょっとして現在雌伏中の本人も今はそのことを悟っているんじゃないかな。もっとも彼の(中井久夫に準拠した)「ララング(母の言葉)」(≒女性の享楽)の議論はいまでも十二分に生きているけどね(参照)。
そもそも、後期ラカンの真の読解は21世紀にはいって始まったばかりだよ、だから10年以上前に書かれた内容が仮に「間違い」だとしても、それを難詰したくないね。彼はその時点で、ラカンの可能性の中心を提示したんだろうし。
もっともいまだって現代ラカン主流臨床派が間違った方向に行ってしまっているという観点もあるだろう(例えばジジェクの観点)。とはいえ現在は、ソレールの言うアンコールまでの「現実界のデフレ」と「二つの現実界」を視野におさめることが肝腎(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。
現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
あるいは冒頭近くに引用したミレールの言う「性別化の式のデフレ」と格闘しないと、女性の享楽についてはたいしたことは言えない筈だよ。
繰り返せば、たとえば現在「思想家・批評家」の流行児である千葉雅也ーーファストフード的知的消費者向けの精神分析を連発している彼ーーも、アンコールまでのラカンの女性の享楽に留まってしまっていて、上に記したミレールやソレールの議論には殆どトンチンカンのようだから、2010年前後に佐々木中に対しては批判はまったくできないね。
千葉雅也@masayachiba
・ラカンの性別化の式がだいたいのところ生物学的性別に一致してるのだとしても、必ずしも、男性・女性の享楽が生物学的基盤を持つことにはならないか。歴史的ないし政治的に成立した生物学的男女の非対称的関係が、享楽の区別の理由なのかもしれない。そういう読みもありうる。
・ならば、歴史的に成立した男性=強者という体制が、男性はファルス享楽しか持たないことの理由である、となる。政治的な弱者の側にある女性が、ファルス享楽以外に他の享楽も持つ、と。強者にファルス享楽が、弱者に他の享楽がある。仮説です。どうなのだろう。(2018年5月26日)
➡ 補足:快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽