(フロイト『新精神分析入門』1933年) |
フロイト理論の「最大の不幸のひとつ」は、超自我と自我理想の区分をしていないことだ。
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006)
この三区分はラカンの「ボロメオの環」を使えば、鮮明化される。
ジジェクは理想自我、自我理想、超自我の《三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉というラカンの三幅対である》としているが[参照]、これはそのまま直接には受けいれ難い。それぞれの重なり部分に置くべきだと、わたくしはこのところ考えるようになった。
上の図を日本語で示せば、すなわち、
ーー言語(語表象)の箇所は、フロイトの別の表現「外界」にしてもよいし、ラカンなら大他者Aである。だがここでは簡潔に最晩年のラカンの《象徴界は言語である Le Symbolique, c'est le langage》(S 25, 10 Janvier 1978)に則っている。
自我理想と理想自我の区分とは、最も簡潔に言えば、象徴的同一化と想像的同一化にかかわる。
ミレールに依拠して言えば、想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
だがここでの話題は、超自我と自我理想の区分である。
前期ラカンは、この「超自我/自我理想」を「母なる超自我/父なる超自我」としている。
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
この「太古の archaïque」という語は、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論文の表現によって補えばよい、《「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。》(『終りある分析と終りなき分析』1937年)
母なる超自我、あるいは原大他者は次のように表現されている。
原初にあるのは女の支配なのは当たり前である。それは個人史においても、太古の歴史においてもーー生む女・母なる大地等ーー同様である。
上に掲げた「母なる超自我」は、臨床的には「母なるシニフィアン」である。
父の機能は後にS1と言い換えられる、《S1 とは構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père 》(S17、1969)、それが《父の機能(縫合機能)を持てば、どんなシニフィアンでもよい。quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître》(同S17)
⋯⋯⋯⋯
たとえば、現在日本で最も「まともな」思想家である柄谷行人でさえ、あの憲法超自我論でこの区分ができていない、《私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです》[参照]。ただしさすが柄谷である、その痕跡はある。憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示しているのだから。
戦後日本における「象徴天皇制」とは、明治以降半世紀ばかりのあいだ「疑似一神教」として機能した天皇制とは異なり、江戸期を代表しつつもさらに古代に遡った「母なる超自我」の機能をもつ。この母なる同一化とほぼ相同的な内容として、若き浅田彰のとても優れた日本文化論の断片がある。
ーーこれと似たような認識を柄谷行人は1990年前後に示している。
他方、憲法九条に代表される戦後憲法とは、外部から与えられた「父なる超自我」=「自我理想」である。
したがって次のように図示できる。
(天皇制は、サントームの二つの意味、一つの意味である「リビドー固着」ではなく、もう一つの意味である「固着から距離をとって」三界を縫合するものとしてのサントームと捉えることもできるが、ここではその議論は割愛)。
ようするに天皇制という「母なるシニフィアン」の「父なる代理シニフィアン」が憲法九条である。そしてラカンが言うように、この父なるシニフィアンS1はどんなシニフィアンでもよい、それが父の機能を果たせば。したがってラカン派観点からは憲法九条は変えられる。だが天皇制の廃止は、それが原超自我である限り無理である。これは一神教国でない日本の或る意味での宿命であり、ほかの原縫合機能を新たに探すのはまったく容易ではない。
原縫合機能とは、「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」で示したように、原穴埋め機能である。
⋯⋯⋯⋯
この二つの超自我の観点はフロイト自身のなかにもないではない。
たとえば最晩年のフロイトは次のように言っている。
この神とは、ラカンによって補えばよい、《一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。》(ラカン, S17, 18 Février 1970)
『モーセと一神教』には次の文もある。
最初に個人の行動を監視するのは、父ではなく母(母親役)に決まっているのである。したがって母が原超自我である。
超自我概念を始めて明瞭に提出した『自我とエス』の第三章「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」においてさえ、この思考の痕跡はある。
この文には註が付されている。
この超自我と自我理想の区別(母なる超自我と父なる超自我の区別)は、柄谷行人だけではなく、日本ではわたくしにとって最も信頼がおける精神科医中井久夫でさえ区別ができていない。ことほどさように、おそらく現在まで日本オベンキョウ社交界の連中は全滅である筈だ・・・
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
原初にあるのは女の支配なのは当たり前である。それは個人史においても、太古の歴史においてもーー生む女・母なる大地等ーー同様である。
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
上に掲げた「母なる超自我」は、臨床的には「母なるシニフィアン」である。
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
父の機能は後にS1と言い換えられる、《S1 とは構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père 》(S17、1969)、それが《父の機能(縫合機能)を持てば、どんなシニフィアンでもよい。quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître》(同S17)
⋯⋯⋯⋯
たとえば、現在日本で最も「まともな」思想家である柄谷行人でさえ、あの憲法超自我論でこの区分ができていない、《私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです》[参照]。ただしさすが柄谷である、その痕跡はある。憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示しているのだから。
戦後日本における「象徴天皇制」とは、明治以降半世紀ばかりのあいだ「疑似一神教」として機能した天皇制とは異なり、江戸期を代表しつつもさらに古代に遡った「母なる超自我」の機能をもつ。この母なる同一化とほぼ相同的な内容として、若き浅田彰のとても優れた日本文化論の断片がある。
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ーーこれと似たような認識を柄谷行人は1990年前後に示している。
他方、憲法九条に代表される戦後憲法とは、外部から与えられた「父なる超自我」=「自我理想」である。
したがって次のように図示できる。
(天皇制は、サントームの二つの意味、一つの意味である「リビドー固着」ではなく、もう一つの意味である「固着から距離をとって」三界を縫合するものとしてのサントームと捉えることもできるが、ここではその議論は割愛)。
ようするに天皇制という「母なるシニフィアン」の「父なる代理シニフィアン」が憲法九条である。そしてラカンが言うように、この父なるシニフィアンS1はどんなシニフィアンでもよい、それが父の機能を果たせば。したがってラカン派観点からは憲法九条は変えられる。だが天皇制の廃止は、それが原超自我である限り無理である。これは一神教国でない日本の或る意味での宿命であり、ほかの原縫合機能を新たに探すのはまったく容易ではない。
原縫合機能とは、「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」で示したように、原穴埋め機能である。
S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴(トラウマ)を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
⋯⋯⋯⋯
この二つの超自我の観点はフロイト自身のなかにもないではない。
たとえば最晩年のフロイトは次のように言っている。
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)
この神とは、ラカンによって補えばよい、《一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。》(ラカン, S17, 18 Février 1970)
『モーセと一神教』には次の文もある。
超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlungen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939 年)
最初に個人の行動を監視するのは、父ではなく母(母親役)に決まっているのである。したがって母が原超自我である。
超自我概念を始めて明瞭に提出した『自我とエス』の第三章「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」においてさえ、この思考の痕跡はある。
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想 Ichideals の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化 bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit.である。(フロイト『自我とエス』1923年)
この文には註が付されている。
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如 Penismangels に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。
Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(フロイト『自我とエス』1923年)
この超自我と自我理想の区別(母なる超自我と父なる超自我の区別)は、柄谷行人だけではなく、日本ではわたくしにとって最も信頼がおける精神科医中井久夫でさえ区別ができていない。ことほどさように、おそらく現在まで日本オベンキョウ社交界の連中は全滅である筈だ・・・