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2018年12月29日土曜日

をんなのにほひ




エロいんだよな、アオヤイって(北部はアオザイといい、南部はアオヤイという。長い服という意味)。

最初にこの土地に着たとき、こんなにエロくっていいもんだろうか、と思ったぐらい。いまはだいぶ慣れたけれど、まだドキッとすることはままあるね。仕立てと素材が肝腎なんだけど。ツレは日本の服ってなんであんなにダサイのかしら、というけどさ。浴衣なんかはいいよ、と返すんだけど、そうはいっても遠目のエロでは完全に負けてるな。


何度か引用しているけれど、安吾とバルトはこう言ったんだよな。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」1950年)
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇 intermittence である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅 apparition-disparition の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

バルトのいってることなんかは、アオヤイのエロを完全に説明してるね。

もっともすぐれた作家の映像だったらハダカだっていいけどさ、次のゴダールは左が「こんにちは、マリア」、右が「探偵」。




若い軀ということもあるが、媚態がないところがまずいいんだろうな。