象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。Miller's search for the "pure" Real outside the Symbolic, a Real not yet stained by it, that he attributes to Lacan〔・・・〕
ミレールによれば、ラカンの「性別化の式」でさえ、法の外部にある「純粋な」現実界を混乱させる象徴的苦心作のカテゴリーに落ちる。According to Miller, even Lacan's "formulas of sexuation" fall into this category of symbolic elucubrations that obfuscate the "pure" Real outside the Law. 〔・・・〕
この論拠の流れは、厳密なラカニアンの立場からは、何かが途轍もなく間違っている From a strict Lacanian standpoint, something is terribly wrong with this line of reasoning: 〔・・・〕
ここで失われているものは、ラカンの現実界自体である。現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” とラカンがセミネール XX で言っているように)。現実界とは象徴界の固有の不可能性であり、象徴界を内部から妨害/歪曲する純粋に形式的障害物である。
what goes missing here is the Lacanian Real itself, the Real which is nothing but a deadlock of symbolization or formalization ("Le reel est un impasse de formalization," as Lacan put it in his Seminar XX), the Real which is an immanent impossibility of the symbolic, a purely formal obstacle that thwarts/distorts the symbolic from within (ジジェク、'Am I a Philosopher?' by Slavoj Žižek, Delivered at International Žižek Studies Conference on May 27th 2016.)
2004年の『ジジェク自身によるジジェク』では、「私のラカンはミレールのラカンだ I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan.」と言っていたジジェクが、こう言うようになっているのである。
実はこれはジャック=アラン・ミレールだけに対する話ではない。主に現在の臨床的ラカン派と哲学的ラカン派とのあいだの現実界理解の齟齬である。
ラカン臨床派代表的注釈者としてミレールと並び立つコレット・ソレールは、2005年すぎから、「二つの現実界」ということを言っている。ここでは2009年の書から引用しよう。
現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
ここでコレット・ソレールが言っている象徴界外の現実界とは、たとえばラカンの次の発言のなかにある。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
他方、ジジェクのいう現実界は、コレット・ソレールのいう《象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会う》現実界、《象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」》のみである。
それはたとえば次の文が鮮明に示している。
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pastout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。
存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
この現実界の捉え方は、ラカンの現実界の或る相しか捉えていないというのが、とくに2010年前後からの主流臨床ラカン派の考え方である。
まずジジェクのいう現実界①がある。これは臨床ラカン派も否定しているわけではけっしてない。
【現実界①】
テュケー tuché の機能、それは出会い rencontre としての「現実界の機能 fonction du réel」ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマ traumatisme という形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)
ここでラカンが言っているのは、「シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」としての象徴界の形式化の限界に「現実界との出会い rencontre du réel」という形で現れる現実界である。
この1964年に語られた現実界①は、セミネール20「アンコール」まで続く。
現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
だが「アンコール」の終盤になって、上の現実界①とは異なる現実界②が現れる。
【現実界②】
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
この発言は、ほぼ同時に語られた次の文で補うとその真意が分かる、
私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (S20. 15 Mai 1973)
この「話す身体corps parlant」としての現実界②は、形式化の行き詰まりに現れる現実界①とは全く異なるのが、おそらく誰にでも瞭然とするだろう。セミネール20の聴講者であったソレールはこの表現に出会って驚いたと述懐している。
そして次の年の講演ではこう言う。
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
この《書かれることを止めない》は、シニフィアンのネットワークにおける(象徴界について)《書かれることを止めない》とは同じ表現でありながら全く異なるなにものかである。
1973年までのラカンは次のように定式化していた。
私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (ラカン、RADIOPHONIE、AE431、1970)
A:必然性 le nécessaire :ne cesse pas de s'écrire (象徴界について)書かれることを止めない
B:偶然性 le contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれぬことを止める
C:不可能性 l'impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれぬことを止めない
ーー必然性Aの限界に偶然性B があって、不可能性C との出会いがある。
事実、アンコールの段階でもこう言っている。
偶然性 la contingence を、わたしは、書かれぬことをを止める cesse de ne pas s'écrire で示した。というのも、そこにはまさに出会い rencontre があるからである。(Lacan, S20、26 Juin 1973)
これは現実界①をめぐっている。「書かれることを止めない」シニフィアンのネットワーク(象徴界のオートマン)において(その限界において)「書かれぬことを止めない」(テュケー)との出会いがある。それが「書かれぬことを止める」と表現されているものの内実である。
これが上に引用したソレールのいう《象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」》であり、現実界①である。
この現実界①は、次の現実界②とは全く異なるのである。
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
ーー最初にこの図に出会ったとき、なぜオートマンが右側にあり、テュケーが左側にあるのか不思議でならなかったが、今は(上に記したように)その意味が瞭然としている。
こうしてジジェクのミレール批判は、後期ラカン、アンコール以後のラカン観点からは、ジジェクのほうが「途轍もなく間違っている」ということになりうる。これはわたくしがジジェクのミレール批判に出会ってから、一年ほどかかってそう思うようになった当面の結論である。
(Slavoj Zizek against Miller) |
実際、ジジェクはラカンをそれほど読んでいない。彼の最近の書には三人組(ジジェク、アレンカ・ジュパンチッチ、ムラデン・ドラー)のなかの二人に教えられてラカンのさる表現に気が付いた、という記述がしばしばある。
わたくしはジジェクを好んで読んできたし、いまでも多くの部分は共感することが多い。だが現実界の捉え方の一面性だけはどうあってもいただけない。
S23, 13 Avril 1976 |
象徴界のなかの穴が、現実界①としての《象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」》である。他方、想像界と現実界のあいだの《真の穴 vrai trou》、これが現実界②である。ジジェクは現実界②をめぐる臨床ラカン派の捉え方を批判するのではなく、この図の別の読み方を提示すればよいのである。
(実際、若手哲学的ラカン派のリーダーとされるロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa には、このボロメオの環の二つの現実界はやはり象徴界の裂け目(非全体)にかかわるという指摘をしている。想像界と現実界の重なり部分というが、想像界は象徴界に支配されているではないか、と。わたくしはその観点に納得できてはいないが)。
そしてこの現実界②とは、ミレールによれば、フロイトの『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」に現れる決定的な文、《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》にある。これが後期ラカンの現実界の核心だとミレールはくどいほど繰り返している。
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungszwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。
そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)
最晩年のラカンの《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(S 25, 10 Janvier 1978)とはフロイトの言う《Automatismus》のことである。
象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。⋯⋯⋯
ミレールによれば、ラカンの「性別化の式」でさえ、法の外部にある「純粋な」現実界を混乱させる象徴的苦心作のカテゴリーに落ちる。
⋯⋯この論拠の流れは、厳密なラカン派の立場からは、何かが途轍もなく間違っているsomething is terribly wrong。(Slavoj Žižek: Am I a Philosopher?, 2016)
(とはいえ強い主張とは大切である。ジジェクのミレール批判がなかったら、ミレールが何を言ってきたのかをいくらか遡って読んでみようとは思わなかったから、--と括弧つきで言っておこう。わたくしはジジェクを読むといまでも愉快になるのを告白しておかなくてはならない・・・)
次にミレールである。
(おそらくミレールのように考えるのは倫理判断として何の意味があるのかという批判(吟味)はありうる。だがミレールの立場はあくまで理論判断であり、最晩年のラカンに準拠したその理論判断を蔑ろにするわけにはいかない。)
象徴秩序 l'ordre symbolique が、現実界を統整しrégulant le réel 、それに法を課す imposant sa loi「知 savoir」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず ne commande pas au réel、むしろ現実界に従属するsubordonné「見せかけのシステム un système de semblants」として認知されている。象徴秩序は、「性関係はない」という現実界 réel du rapport sexuel qu'il n'y a pas に応答するシステムである。(ミレール「無意識と話す身体 L'inconscient et le corps」2014)
ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。
ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。
(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
ミレールが言っている「法なき現実界」は、ラカンのセミネール23に現れるが、この表現自体、フロイトの『制止、症状、不安』に次のような形で現れる。
抑圧(放逐)は、根本的には逃避の試み Fluchtversuch である。抑圧されたものは今、いわば無法(vogelfrei 暴れ馬)である。抑圧されたものは、自我の大きな組織から放り出され ausgeschlossen、無意識の領野を支配する法にのみ従う。(フロイト『制止、症状、不安』10章)
この無法の反復強迫は、比較的早い時期のラカンが次のように表現したものだとわたくしは捉えている。
寸断された身体 corps morcelé ……駆り立てられたように感受される荒れ狂う運動 la turbulence de mouvements dont il s'éprouve l'animer. (ラカン、E95、1949年)
本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires(S1、05 Mai 1954)
欲動蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre 1962)
寸断された身体 corps morcelé は、分裂病者において出会いうる rencontré chez les schizophrènes。(ラカン、S10、23 Janvier 1963)
ミレールに戻れば、彼の観点では、ラカンは科学的現実界期(セミネール11からセミネール20)を経て、とくにセミネール10「不安」のラカンに戻ったのである。
セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。
そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!
そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。
ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。
…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)
セミネールⅩ回帰とは、フロイトの「固着」あるいは「身体」回帰である。
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)
ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。》(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)
最近のコレット・ソレールも一文だけ付記しておこう。
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…
現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
このソレールの文は、次のミレール文と使う語彙は異なるが、ほとんど同じことを言っている。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
そして見てのとおり、サントームの享楽は、フロイトの『制止・症状・不安』における欲動要求の《自動性 Automatismus》である。
この欲動要求は、すべての人間の症状の核(症状のない主体はない)であり、治癒不可能なものであることは、最晩年のフロイトの論ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論にてゲーテの『ファウスト』を引用しつつ次のように記している。
欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。
しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
フロイトの別の表現なら、原症状ーーラカンのサントームーーとは人間にとって避けれらない「構造的トラウマ」としての「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」(『モーセと一神教』1939年)なのであり、この身体の上への刻印としての固着による反復強迫が、象徴界の形式化の行き詰まりに現れるとはけっして言い得ないとわたくしは思う。それは何割かの人が経験する「事故的トラウマ」による外傷神経症の反復強迫を一瞬でも思い起こせばそう感じざるをえない。