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2018年11月13日火曜日

反復と反復強迫

最近、ときには基本版をもっと記しておかねばならないという気がしてきた。

小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。(……)

わたしはまた、どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。沈黙は抗弁の一種なのだ、言いたいことを飲み下してしまうのは、必然的に性格を悪くするーーそれは胃さえ悪くする。沈黙家はみな消化不良にかかっている。--これでおわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……(ニーチェ『この人を見よ』)

もちろんこう考えるのは「蚊居肢ブログ」の架空の登場人物「蚊居肢散人」であり、この「わたくし」ではない。「蚊居肢散人」はときにニーチェに同一化する悪癖があるのである。

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精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)

人はみな反復の人生を送っている。だが反復には二種類ある。エディプス期以後症状と前エディプス的症状における反復である。

フロイトの『想起、反復、徹底操作』(1914年)において、Wiederholen(反復)からWiederholungszwang(反復強迫)への移行がある。

この相違は何か?

(精神)神経症のコンテクストでは、どの「反復 Wiederholen」も、絶えまず換喩的に移行する欲望の弁証法内部での新しい何ものかを含んでいる。反対に、フロイトが外傷神経症のなかに発見した「反復強迫 Wiederholungszwang」は、トラウマ的現実界からくる何ものかを象徴化する試みのなかで、しっかりと固定化されている。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、2002年)

トラウマ的現実界からくる何ものかを象徴化する試みとは、不可能な試みである。象徴化されえないものを現実界というのだから。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》である。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

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フロイトには「精神神経症 psychoneurose」 と「現勢神経症 Aktualneurose 」の二種類の神経症概念がある。前者が心的なもの、後者が身体的なものであり、これが(基本的に)人間にとっての症状のすべてである。現勢神経症とは実質上、外傷神経症である(参照:「外傷神経症と現勢神経症」)。そしてここでの外傷とは事故的トラウマというよりも、むしろ構造的トラウマが主要なものである。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(異物=対象a)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997




原抑圧 Verdrängungen (固着)は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre(身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

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倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。(Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011、pdf

日本ラカン派は、最近の若い連中も含めて、ほとんどが神経症者である、と倒錯者を自称する「蚊居肢散人」は見ている(パラノイア者は数人いるが妄想に耽っているのみである)。神経症者によるラカン解説は、寝言でしかない。ミレールは神経症者だろうが、神経症者はミレールのようにラカンやフロイトを50年ほど読んだり、分析治療をしっかり受けねばチンプンカンプンのままである。

すなわち日本的ラカン派における神経症的ラカン解説は、不感症者向けの不感症的言説にすぎず、まったく役に立たない(もちろん不感症的読者たちのオベンキョウには役立っているのかも、と遠慮していっておいてもよい)。

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre l962)