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2018年11月13日火曜日

パラノイア的妄想ラカン派

前回、トンチンカンな神経症的ラカン派だけではなく、パラノイア的妄想ラカン派もいる、と記したが、たとえばツイッターラカンセミネールをしておられる妄想的ラカン派は次のように言っている。

小笠原晋也@ogswrs Jacques-Alain Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.(2014年09月10日)

ーーようするに享楽について反ラカンなのである。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)


あるいはこうも言っている。

「フロィトの Trieb と精神分析家の欲望とについて」のなかにこの命題があります : le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose[欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある].

この la Chose という語を,Lacan は後に l'achose とも表記します : a-chose. そこには,剰余悦 [ le plus-de-jouir ] としての客体 a が読み取れます.すなわち,「悦は物の側にある」は,客体 a における剰余悦のことです.

剰余悦は仮象にすぎません.より本有的なのは,欲望としての他 Ⱥ です.他 Ⱥ の欲望も,究極的には,ex-sistence としての存在欠如へ還元されます.
(小笠原晋也@ogswrs 2016年3月17日

ーーようするに現実界について反ラカンなのである。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976


ーーようするに享楽/欲望(悦/欲望)について反ラカンなのである。

《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――大他者であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネール VII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である《モノ das Ding》を経由して、この論文で取り上げられています。

このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています《 La libido n’est pas l’instinct sexuel. Sa réduction, à la limite, au dé­sir mâle, indiquée par Freud, suffirait à nous en avertir》( E851)。
(⋯⋯)

欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値 la valeur de la jouissance があります。《欲望の難所は本質的に不可能性である le freudisme coupe un désir dont le principe se trouve essentiellement dans des impossibilités》(E852)とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。
(⋯⋯)

欲望は法に従属している 《 Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi》(E852)――これはこの短いテクストで公式化される重大な要点です。これが、欲望は大他者からやってくるということの意味です。

しかし、欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。(ジャック=アラン・ミレール、セミネール、ラカンのテキストについての注釈1994)


あるいはこうもある。

小笠原晋也@ogswrs   Lacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.(2016年03月15日)

ーーようするに「選択的非注意」に陥っているのである。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960)
欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE, AE207, 1966)
欲望は享楽に対する防衛である  le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011、pdf


これではいくらなんでもひどすぎると、蚊居肢ブログの架空の登場人物「蚊居肢散人」は、ツイッターにていくらかチョッカイを出したことがあるが、妄想者というのはみずからの妄想を確信しており強敵である。ようするに彼が次の結論に至るまで半年もかかってしまって(この結論のなかにも三番目の誤謬があるが、二番目が示されたことによりすこしはマシになったという意味である)、もはやけっしてお相手はしないことに決めたのである。

小笠原晋也@ogswrs Lacan が「悦」と言うときに,三つのものを考える必要があることがわかりました:第一に,剰余悦 a ; 第二に,禁止された(実は,不可能な)性関係の悦 φ barré ; 第三に,欲望の昇華としての悦 S(Ⱥ) (2016年12月01日)

その後もしきりに妄想に耽っておられるが、いまだ数人のインテリ仔羊たちーー初老の文芸評論家もふくめーーが彼の妄想にうんうん頷いているのがみられる。とはいえラカン理論にかぎらず、これが日本的ツイッター社交界というものである。

もっともあの妄想者については、ある程度はやむえないという感を抱いている。

そもそも最晩年のラカンの言明、「人はみな妄想する」がある。そして小笠原氏は、自らの享楽(欲動の現実界)による殺人事件にて「小笠原諸島」に9年ほど幽閉された。

小笠原晋也@ogswrs 他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.((2014年7月26日)

ーー φ barréとは原去勢=穴Ⱥである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

ラカンマテームではφ barréは、(- φ)と書かれるが、これは想像的去勢をも表すマテームであり、それとの区別のため、小笠原氏はφ barréと記しているのである。これがスグレタ徴示法であるのを認めておいてもよい。たしかに小笠原マテームのほうがラカンマテームを読みなれない者にたいしては誤解がすくないのである。


- φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)


ただし享楽(と欲望)の理解(誤解)がたぐいまれなる阿呆鳥なのである。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

あるいはフロイトのモノの理解(誤解)が致命的なのである。

(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)

くりかえせば、(- φ) とは「穴Ⱥ」でありモノである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー穴の機能とは穴ウマの機能である。《穴ウマ troumatisme=トラウマ》(S21、19 Février 1974)

トラウマは書かれることを止めず、反復強迫するのである。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ここでむしろフロイトを引用すべきだろう。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

したがって、身近なーーむしろ「直近の」というべきかーートラウマに対する防衛として、際立った妄想に囚われるのはやむえない。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911)

かつて蚊居肢散人は、彼の鳥語をツイッター社交界における「小粒のシュレーバー事例」と命名した。とはいえあの妄想が彼を生かしているのである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

ーー蚊居肢散人は、小笠原鳥語は症例としてはひどく興味深いものであるのを認めるのに吝かではない。

さらにいえば、ラカンをフロイトの至高の解釈者と評価するのみでラカン派ではけっしてない倒錯的ラカン読みである「蚊居肢散人」についても、人はもちろん疑わねばならない。そもそもラカン理論を支えるものは何もない。これが「大他者の大他者はない」というラカンのテーゼをラカン理論自体にむけて当てはめた意味である。

・大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
・真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.(ラカン、S18, 13 Janvier 1971)

別の言い方をすれば、真理は非全体(非一貫的)である。

真理は女である。真理は常に既に、女のように非全体 pas toute である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

最後に「人はみな妄想する」を言い換えて示せば、「人はみな穴埋めをする」、あるいは「人はみなトラウマ埋めをして生きている」というのがラカン派の窮極の教えである。

我々の言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)