「ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある」で次の文を引用した。
そして、「サリヴァンの「解離 dissociation」は、現在、精神医学で使用される解離とはやや異なる筈である。だが、それについては不詳の身でありここでは関知しない」と記した。
中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)
昨晩、中井久夫をぼんやり読んでいると、次の文に行き当たった。わたくしは中井久夫をそれなりによく読んでいるほうだと思うが、こういった(現在のわたくしにとっては)核心的な文を読み流してしまっていた。
【サリヴァンの「解離」とフロイトの「排除」】
【サリヴァンの「解離」とフロイトの「排除」】
⋯⋯⋯解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。例えば非常に原始的な防衛機制と言われている projective identification(投影性同一視)にせよ言語で語られるものです。これは私が腹を立てているとき、あなたが怒っていると思うことです。自分の感情を相手に投影するのです。しかし解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。
(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。
この幼児型の記憶がどうして危機のときに出てくるかというと、とっさの対応には幼児型の記憶のほうが効率的だからと思われます。大人の記憶で「そういえば、オオカミにやられたことがあった」とジワッと思い出すよりも、端的にオオカミがグワッと口を開けたイメージが浮かんだほうが「オオカミは怖い」ということが頭に入るわけです。⋯⋯オオカミが出たところやオオカミのような人間が出たところは通らないほうがやられる危険が減るわけですから、その点で avoidance も適応的だと思います。
神経症を一歩踏み抜いたらどうなるでしょうか。強迫神経症において恐怖の対象となるものは実際の物ではありません。バクテリアがついている、ガスが出ているなどというイマジネーションです。決して現実のガスやバクテリアではなく、いくら消毒しても消えないものが汚染しているというイマジネーションです。あるいはガスが出ているというイマジネーションです。イマジネーションを消すために彼らは意識性を高めて努力するのですが、この努力には天井があります。手を洗うなどのように行動化する、頭の中に知恵の輪を思い浮かべて解く、何かの数字を足すというようなことには限度があるのです。無限にはいきません。だから痙攣的に繰り返すのが強迫症だと書いたことがあります。
天井を突き抜けると非常に統合失調症に近くなります。天井がある一つの理由は、サリヴァンが指摘しているように強迫症は睡眠が強固であるということです。眠れないはずなのに強迫症の睡眠は強固なのです。逆に、強固な睡眠がだめになると強迫症の治療がきわめて困難になり統合失調症より難しくなります。また睡眠薬があまり効きません。この天井を踏み抜くと思考は無限延長し、いくらでも考えが伸び、また無限に分かれて統合失調症の発病につながるのです。強迫症と対比した場合に意識性の天井が取り払われたといえるでしょう。
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、1990年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学では非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
サリヴァンの解離は「排除 Verwerfung」であるとされている。ようするにフロイトの「原抑圧 Urverdrängung」に関する用語である。原抑圧とはフロイト自身やその最もすぐれた解釈者であるラカン自身がひどく彷徨った概念であり、ポストフロイトの現在の精神医学界ではほとんど忘れられているが。
ラカンが《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というときの無意識は、抑圧された無意識であり、他方、現在のラカン派が強調する言存在 parlêtre の無意識ーーフロイトが『自我とエス』でいう 《抑圧されていない システム無意識 nicht verdrängtes Ubw 》 ーーが言語のように構造化されていない原抑圧の無意識である。
もっとも享楽は、ラカンの定義上(享楽の不可能性、欲動=享楽の漂流)、実際は享楽欠如の享楽である。
このところ何度か示しているが、抑圧の無意識/原抑圧の無意識とは、次の図にかかわる。
ここで抑圧(追放)と、原抑圧(排除)の相違を示しておこう。
※もう少し詳しくはーーフロイト自身の言葉も含めてはーー、「防衛の一種としての抑圧」を見よ。
中井久夫に戻れば、「解離」すなわち「排除」は「言語以前」ともある(これはジジェクのいう「脱象徴化」である)。そして幼児型記憶的なフラッシュバックは《コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらない》ものともある。
ラカンが《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というときの無意識は、抑圧された無意識であり、他方、現在のラカン派が強調する言存在 parlêtre の無意識ーーフロイトが『自我とエス』でいう 《抑圧されていない システム無意識 nicht verdrängtes Ubw 》 ーーが言語のように構造化されていない原抑圧の無意識である。
ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(同ミレール 2014)
もっとも享楽は、ラカンの定義上(享楽の不可能性、欲動=享楽の漂流)、実際は享楽欠如の享楽である。
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)
このところ何度か示しているが、抑圧の無意識/原抑圧の無意識とは、次の図にかかわる。
ここで抑圧(追放)と、原抑圧(排除)の相違を示しておこう。
Wahrig 辞典において、Ver-の意味はまず Abweichen(逸脱 deviation・脱線 digression・横道に逸れる straying away)と定義されている。(⋯⋯)
「抑圧 Verdrängung」概念は、次の二つのVer- 概念を伴う。すなわち「Verdichtung 圧縮」と「Verschiebung 置換」である。この二つの概念は、フロイトにとって「夢作業Traumarbeit」の基本メカニズムの名である。(ムラデン・ドラー 2012、 Mladen Dolar, Hegel and Freud)
・Verwerfung(排除 ・外に放り投げる)においては、内容が象徴化から放り出され脱象徴化される。したがって内容は現実界のなかにのみ回帰しうる(幻覚の装いにて)。
・Verdrängung(抑圧・追い出す)においては、内容は象徴界内に残っている。だが意識へのアクセスは不可能であり、〈他の光景〉へと追いやられ、症状の装いにて回帰する。
・Verleugnung(否認)においては、内容は能動的形式で認められている。だがIsolierung(分離・隔離)という条件の下である。すなわち、象徴的影響は宙吊りになっており、主体の象徴的世界のなかへは本当には統合されていない。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
※もう少し詳しくはーーフロイト自身の言葉も含めてはーー、「防衛の一種としての抑圧」を見よ。
中井久夫に戻れば、「解離」すなわち「排除」は「言語以前」ともある(これはジジェクのいう「脱象徴化」である)。そして幼児型記憶的なフラッシュバックは《コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらない》ものともある。
これも現在のラカン派がいう「S2の排除」にこよなく近似している(参照)。
神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018, pdf)
すなわち「S2なきS1」であり、トラウマ的な「原症状=サントーム」に。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
【症状の二重構造:現勢神経症(外傷神経症)/精神神経症】
さらに中井久夫は症状の二重構造を説明している。強迫神経症の底にある分裂病(統合失調症)を例に出して。
これは精神神経症と現勢神経症(現実神経症)の関係にある。
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。
目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
ここでフロイトにおける「抑圧/原抑圧」と「精神神経症/現勢神経症」の記述を掲げよう。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
……早期のものと思われる抑圧(原抑圧)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合(原抑圧の場合)は原初の危険状況 ursprünglichen Gefahrsituation に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。
(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
そして「フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」」にて引用したラカンの「ファルス享楽/身体の享楽」の発言を掲げる。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre (身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
他の享楽・身体の享楽とは、ファルス秩序(言語秩序・象徴秩序)の症状の彼岸にある現実界的症状ということである。
ラカンにとって現実界とは事実上「トラウマ界」である。
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
ここでのレミニサンスとは想起という意志的記憶とは異なり、無意志的記憶ということであるだろう(参照:プラトン/プルーストのレミニサンス)。
すなわち中井久夫のいう「オオカミにやられたことがあった」とジワッと思い出すことが意志的記憶であり、「オオカミがグワッと口を開けたイメージが浮か」ぶ形の幼児型記憶におそわれるのが無意志的記憶である。
幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
こうしておそらく次のように図示できる。
上下は地上/地下の症状のことである。精神神経症/現勢神経症は、ポール・バーハウによるこの二つの概念の拡大解釈に則って、精神病理/現勢病理とするべきかもしれない。
「現勢病理」の共通分母は、興奮あるいは緊張が、精神-代理表象的仕方で処理されえない事態である。フロイトにとってこれが意味するのは、彼の時代の精神分析治療は不可能だということである。言語的さらには象徴的素材さえないので、分析するものは何もない。
フロイトの想定において、「精神病理」的発達は「現勢病理」的核の上の標準的な「継ぎ足しcontinuation」である。「現勢病理」的核は(主体の)どの発達の出発点にもある。現勢病理と精神病理の二つは、単一の「連続体 continuum」の二つの両極として捉えられるべきである。どの精神病理にも現勢病理の核がある。どの現勢病理も可能性として精神病理へ進展する。……
フロイトは現勢病理(現勢神経症)のなかの不安神経症と神経衰弱しか記述していない(この二つはわれわれの時代にパニック障害と身体化障害である)。しかし現勢神経症の可能な形式はそれだけではない。
私の読解では、「外傷神経症」のほとんどすべてと同様、すべての境界性パーソナリティ障害(ボーダラインスペクトラム borderline spectrum)を付け加えるべきである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists、2008、PDF)
バーハウは、現勢病理は、外傷神経症もふくまれるといっている。これは上に引用した中井久夫の意図とほぼ同一である、ーー《現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか》とは、二つの間の相違は判然としないということである。
さらに中井久夫は《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶は⋯⋯語りとしての自己史に統合されない「異物」である》と言っているが、これは「分裂病と外傷性神経症」で見たように、フロイト概念である。
【外傷神経症の治療方針】
というわけだが、半年ほど前「人はみな外傷神経症である」という「思いつき」的投稿をしたけど、この投稿はそのいくらかの理論篇だね。
さらに中井久夫は《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶は⋯⋯語りとしての自己史に統合されない「異物」である》と言っているが、これは「分裂病と外傷性神経症」で見たように、フロイト概念である。
トラウマ(心的外傷 psychische Trauma)、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
【外傷神経症の治療方針】
というわけだが、半年ほど前「人はみな外傷神経症である」という「思いつき」的投稿をしたけど、この投稿はそのいくらかの理論篇だね。
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
次に中井久夫の外傷神経症の治療方針を掲げる。
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)
この中井久夫の外傷神経症の治療方針自体、晩年のラカンの原症状(フロイトの欲動の固着による症状)の治療、つまり《もはやどんな根源的還元réduction radicale もない…決して取り消せない n'est jamais annulé》 原抑圧の症状(Lacan, S23, 1975)としてのサントームの治療ととてもよく似ている。
(原症状の治療の) 精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを(原)症状との同一化(そして同一化しつつそこから距離を取ること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)
⋯⋯⋯⋯
※付記
【構造的トラウマと事故的トラウマ】
《何か奇妙な・不気味な・外的なもの》とあるが、これが異物である(ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 1976) )。
フロイトの次の外傷神経症の記述は、通常は事故的トラウマのみを語っているように読まれるのかもしれないが、構造的トラウマも含めて読み込むことができるように思う。
「トラウマへの固着」、「無意識への固着」という項目の記述であるが、原抑圧とは(欲動の)「固着」と同一である。《原抑圧はなによりもまず固着として理解されなければならない》(ポール・バーハウ、2001)
それは次の二文が明瞭に示している。
【構造的トラウマと事故的トラウマ】
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。
構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)
《何か奇妙な・不気味な・外的なもの》とあるが、これが異物である(ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 1976) )。
フロイトの次の外傷神経症の記述は、通常は事故的トラウマのみを語っているように読まれるのかもしれないが、構造的トラウマも含めて読み込むことができるように思う。
外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。
これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事を我々は見出す。
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。
我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年、私訳)
「トラウマへの固着」、「無意識への固着」という項目の記述であるが、原抑圧とは(欲動の)「固着」と同一である。《原抑圧はなによりもまず固着として理解されなければならない》(ポール・バーハウ、2001)
それは次の二文が明瞭に示している。
「抑圧」は三つの段階に分けられる。
①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。
②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。
③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911、摘要)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
フロイトの欲動の固着とは、幼児期の出来事の固着ーーラカンによるサントームの定義としての「身体の出来事」(参照)--が言語に翻訳されず「身体」の水準に置き残されるということである(ここで、ラカンはサントームのセミネール(11 Mai 1976)にて、サントームに相当するものを 《文字対象a( la lettre petit a)》と呼んでいることを注記しておこう)。
まだ原抑圧概念がなかったフロイト1896年の次の文における"Verdrängung"は、原抑圧の定義として捉えるべきである。
この「翻訳の失敗」は、フロイトが1920年に「拘束の失敗」と表現しているものと等価である、と考えられる。
翻訳の失敗、拘束の失敗による残りものが、上に引用したフロイト=中井久夫の「異物 Fremdkörper」、最晩年のフロイトの表現なら「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「リビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste」(1937)でありラカンの対象aでもある(参照)。
そして中井久夫が《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》と書くとき、事故的トラウマの身体の上への刻印だけではなく、幼児期の構造的トラウマの刻印(固着)も同じ機制の反復強迫が働いているという形で考えているのではないだろうか? すくなくとも今現在のわたくしはそう捉えている。
まだ原抑圧概念がなかったフロイト1896年の次の文における"Verdrängung"は、原抑圧の定義として捉えるべきである。
翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.» (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)
この「翻訳の失敗」は、フロイトが1920年に「拘束の失敗」と表現しているものと等価である、と考えられる。
拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
翻訳の失敗、拘束の失敗による残りものが、上に引用したフロイト=中井久夫の「異物 Fremdkörper」、最晩年のフロイトの表現なら「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「リビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste」(1937)でありラカンの対象aでもある(参照)。
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)
そして中井久夫が《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》と書くとき、事故的トラウマの身体の上への刻印だけではなく、幼児期の構造的トラウマの刻印(固着)も同じ機制の反復強迫が働いているという形で考えているのではないだろうか? すくなくとも今現在のわたくしはそう捉えている。