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2018年8月12日日曜日

フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」

フロイトにおいては、精神神経症の基礎としての現勢神経症がある。これは症状は二重構造になっている、という意味である。

ラカンにおいても「ファルス享楽の基礎としての他の享楽(=身体の享楽・女性の享楽)」ということがおそらく言いうる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)


二重構造の上下の境界線は、両者において厳密には一致しないかもしれない。だが基本的には次のように図示しうる。




ようするに快原理内の症状/快原理の彼岸の症状、エディプス期以降の症状/前エディプス期の症状、抑圧の症状/原抑圧の症状である。

「現勢神経症 Aktualneurose」ーーあるいは「現実神経症」とも訳されているーーの「神経症」という語に違和があるなら、「現勢病理」、「現実界病理」と言い直してもよい。とすれば、一般的に流通する神経症概念としての「精神神経症」とは、「象徴界病理」である。

ジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)なら、左が象徴界病理、右が現実界病理の項目とすることができる。




この図においてテュケーとオートマンの位置が、おそらく標準的なラカン読解の方々には、逆のようにみえるかもしれない。なぜなら、セミネールⅩⅠの段階において、ラカン=アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」と示されているのだから。

だが上図のオートマンとは、「「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ」でいくらか詳しく記したが、次の言明にかかわる。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

さて、ここでミレール図の記述内容について、ひとつだけ、ラカンの発言をかかげておこう。上の図の右側に穴 trouとある、《私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

今からフロイトの現勢神経症についての記述をいくつか掲げるが、そのなかのひとつには、現勢神経症とは原抑圧にかかわることが明瞭に示されている。

現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
……早期のものと思われる抑圧(原抑圧)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合(原抑圧の場合)は原初の危険状況ursprünglichen Gefahrsituation に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

フロイトは、原抑圧は現勢神経症の原因である、と記している。原抑圧とはなによりもまず固着のことであり、現在の主流ラカン派では、ラカンのサントーム(原症状)は、フロイトの固着であることが強調されている(参照:ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである)。

したがって、フロイトとラカンとのあいだにあるだろう微妙な差異についての厳密さを期さなければ、次のようになる。



この図から、一般にも馴染みのあるだろう言葉のみを抜き出して上下の形でしめせば、症状の二重構造とは、つまりはこういうことである。




欲望と幻想とは等価である。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

こうして次のように言うことができる。上部には、欲望もしくは幻想という象徴界の症状があり、その欲望・幻想は、底辺の欲動・身体の症状(欲動の現実界 le réel pulsionnel)に支えられている、と。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。

Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

こういった、フロイトやラカンの身体への思考の基本は、たとえばニーチェやスピノザに既にある。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」)

フロイトの『想起・反復・徹底操作』における《彼はそれを(言語的な)記憶としてではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復 wiederholen している》とは、このニーチェ文の変奏とさえ言いうる。

そしてスピノザ。

自己の努力が精神 mentem だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神 mentem と身体 corpus とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質 hominis essentia に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9、畠中尚志訳)

ーー現在、英語圏研究者のあいだでは、この「衝動 appetitus」は Trieb と訳されることが多い。すなわち「欲動」である。こうして《衝動とは人間の本質  hominis essentia に他ならない》とは、「欲動とは人間の本質に他ならない」ということになる。

欲動 Triebは、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
自我の強度が病気、疲労などによって弱まれば、それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足を求めることになる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937)

最後にこう言っておこう、ーー欲望は言語によって不器用に飼い馴らされた欲動である。そして欲動は、この言語空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

⋯⋯⋯⋯

※付記

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ーーフロイトは既にニーチェの永遠回帰は、「反復強迫 Wiederholungszwang」のことだと解釈している(参照)。そしてもちろん反復強迫とは快原理の彼岸にある欲動にかかわる。