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2018年8月11日土曜日

あなたのなかの男、あなたのなかの女

「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではない。エロスとタナトスが混淆しているように、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」2004年、pdf

この文の後半でバーハウの言っているのは、フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」概念である。そして彼の言葉を簡潔に言えば、人にはみな「男女混淆」がある、となる。もちろん各人の資質によって混淆の割合は異なるし、年齢や置かれた環境においても異なることに留意しなければならないが。

しばらくして彼はこうも言う。

これらは、男性と女性の対立ではなく、能動性と受動性の対立として解釈するほうがはるかに重要である。しかしながらこれは、受動性が女性性、能動性が男性性を表すことを意味しない。(同ポール・バーハウ 、2004年)

受動性が女性性、能動性が男性性ではないのは当然だろう。例えば男女の交わりにおいて、解剖学的には、女が受け入れる側、男が挿し入れる側だとしても、女に能動性がないわけはない。逆もしかり。

ここでエロスの作家古井由吉を挿入してみよう。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』「個人」は観念の産物である)

さらにフロイトによるエロスとタナトスの定義にかかわる三つの文を掲げておこう。

エロスは、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、タナトスは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定するようになった。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。…

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為Sexualaktは、最も親密な結合 Vereinigungという目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossungという対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

融合への引力に導かれること、それがエロス欲動である。だが真に融合してしまえば主体の消滅がある。ゆえに斥力が働く。これがタナトス欲動である。すくなくとも上の文からは、タナトス欲動とは「死」とはあまり関係がない。むしろ究極のエロスが死である(参照)。

わたくしの考えでは、一般に幼年期と老年期においてエロスとタナトスの欲動混淆においてエロス比率の割合が高くなる。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

古井由吉だけではない。最近の谷川俊太郎はエロスの詩人の側面が前面に出ている。

逆に青年期から中年期にかけてはタナトス比率が高い。もっとも、重ねて繰り返せば、人の資質による影響が大きい。前エディプス的資質をもっていたり、多くの作家や芸術家のように己れの井戸の底に向かって「退行」すれば、欲動混淆におけるエロスの割合が高くなる、すなわち男女混淆における女の割合が一般的には高くなるのではないかとわたくしは考えている。

もっとも幼年期において、人はエロス比率(受動性比率)が高いだろうにもかかわらず、一般に乳幼児にも能動性はすぐに現れる。能動性、すなわち独立へ向かう動きである。

母親のもとにいる小児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。小児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固着 bleibtし、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛について Uber die weibliche Sexualität』1931年)

上で男女混淆において女比率が高いと想定した、前エディプス的気質のタイプは、ラカン的には、「他の享楽」(=女性の享楽[参照])の審級にある。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

⋯⋯⋯⋯

ここではラカン派的観点というよりいくらかフロイト的観点から記述したが、ラカン派においては次のようなことが言われているのを示しておこう。

厳密な分析的観点からは、事実上、一つの性あるいはセクシャリティしかない。(⋯⋯)

性は二つではない。セクシャリティは二つの部分に分かれない。一つを構成するのでもない。セクシャリティは、「もはや一つではない no longer one」と「いまだ二つではない not yet two」とのあいだで身動きがとれなくなっている。(ジュパンチッチ 2011、Alenka Zupančič Sexual Difference and Ontology
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と、その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)