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2018年8月9日木曜日

女のアッカンベー

詩なんてアクを掬いとった人生の上澄みねと 
離婚したばかりの女に寝床の中で言われたことがある

ーー谷川俊太郎「マサカリ」『世間知ラズ』所収

⋯⋯⋯⋯

以下、前回引用した佐野洋子さんの文だけど、とってもいいな。ボクもときに日本言論界ムラにアッカンベーをしているつもりだったけど、佐野さんから、そしてそのうしろにいる深沢七郎からアッカンベーをされた気分だな。

深沢七郎は誰も居ないところに一人で立っている。多分文壇という集団が固まっているところから遠くはるかにたった一人で平気で立っている。私は、彼の小説を読んでいる時、さっととんでいって深沢七郎のうしろにかくれ、遠くの小説群に向って、「ざまあ見ろ」という気持だけになって、アッカンベーをしたくなる。いや事実している。文壇なんて私には関係ないのだが、私がアカンベーをしているのは、多分世間というもの、人間は、食って糞して寝て唯生きて死ぬということがいかに至難のことかということにすっぽり袋をかけて、嘘っぼい飾りをつけて糞もしない様な面をしている奴等につばをひっかけたくなるのである。(⋯⋯)
 
だから誰もあんまり深沢七郎のことをあれこれ云う偉い人は居ないのだと私は思っている。人間は糞たれて食って寝てボコポコ子供を産んで死んでゆくだけだと思いたくないのだきっと、と私は思う。(佐野洋子、深沢七郎全集付録月報ーー「異人深沢七郎」)

以下は引用元が不明だけど、四五年まえ読んで感心した文だ。

谷川さんは絵本作家、画家の佐野洋子さんと一緒になってから、詩の世界が確かに変わったように感じていたのはぼくも同じだった。

そのことで大江さんは「佐野さんと関わっているということは、詩人、谷川俊太郎にとって危険ではないかと思う」というようなことを言っていた。(谷川俊太郎にまつわる話---1
--谷川さんには世間が欠けている。つまりそれは情が欠けているということである。--

その事実を彼女は容赦なく暴き立てていて、例えば友人でもあった寺山修司の死に、当時、谷川さんに「あなた、すごくショックでしょう」と聴いたところ「ううん、僕、別に・・あいつの仕事は、全部だいたいわかったから、僕はもういいんだよ」と答えたという谷川さん。

 --それでいてお葬式では葬儀委員長をやって、みんなを感動させる詩を凛々と読み上げる。--

そういうことが信じられないことに感じたそうである。(谷川俊太郎にまつわる話---2.「情」


おそらくこれへの応答のようなものとして少し前に引用した「非人情」がある。

どうも私は生まれつき詩人なのではないか、これは自惚れではなく自戒である。詩というものの、不人情につながりかねない「非人情」(『草枕』における漱石の言葉)に、私は苦しめられているからだ。(谷川俊太郎『真っ白でいるよりも』「あとかぎ」、1995年ーー「あなたは時々オニになる」)

大江が言っているらしい、佐野洋子さんのような女は詩人谷川俊太郎にとって危険どころか、彼にとって新たな出発をもたらした女と思いたいね。

彼女は、人間関係においての《不朽のイロニー》だな。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

(⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


もっと簡潔に人のまがいの表象(シニフィアン)を揺らめかす女といってもよい。

無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S11、1964)
精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants(ジャック=アラン・ミレール,1996)
見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 1971)

ーーとラカン派の文を安易に引用してしまうこと自体、アッカンベーをされてしまうもとかもな。