2018年8月8日水曜日

生きているのは気晴らし

きみは女をなぐるかい?」で掲げた中井久夫の「現実の苦痛から逃れるための手段」を再掲する。

①地理的救済(転居、転職、移住、移民、旅行、放浪(国内・国外))

②“歴史的”救済(現状のまま努力を倍加したり、スポーツなどを始めたりして、現状のパラメーターを変えようとする)(病い性を否認)。“歴史的”というのは、これまでの自己蓄積の上に立ち、それを増大させようとするから。

③超越的・宗教的救済(既存の軌道による)ーー坐禅、巡礼、仏門、修道院入り

④非宗教的・愛他的救済(他者の治療によって自己治療が代替される)--ヴォランティアなど → 時にプロの治療者となろうとし、時に成功する。

⑤美あるいは芸術による救済

⑥犯罪・ルール違反による救済

⑦叛乱ー英雄による自己救済

⑧宗教あるいは宗教等価物(自然科学あるいは他の分野も含む)

ーー中井久夫『治療文化論』

これ以外のことをやっているのかね、人間とは。

深沢七郎を想い出しちゃったね。




戦争でエネルギーを使うくらいなら、セックスで消耗する方がよっぽど気がきいてるよ。(深沢七郎)

ーーとってもいい顔してるな、この写真。




悪魔だ、熱病だ!

愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。

異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。(異人深沢七郎


谷川俊太郎の奥さんだった佐野洋子さんは 、深沢七郎全集付録の月報でこう書いているそうだ。

深沢七郎は誰も居ないところに一人で立っている。多分文壇という集団が固まっているところから遠くはるかにたった一人で平気で立っている。私は、彼の小説を読んでいる時、さっととんでいって深沢七郎のうしろにかくれ、遠くの小説群に向って、「ざまあ見ろ」という気持だけになって、アッカンベーをしたくなる。いや事実している。文壇なんて私には関係ないのだが、私がアカンベーをしているのは、多分世間というもの、人間は、食って糞して寝て唯生きて死ぬということがいかに至難のことかということにすっぽり袋をかけて、嘘っぼい飾りをつけて糞もしない様な面をしている奴等につばをひっかけたくなるのである。(⋯⋯)
 
だから誰もあんまり深沢七郎のことをあれこれ云う偉い人は居ないのだと私は思っている。人間は糞たれて食って寝てボコポコ子供を産んで死んでゆくだけだと思いたくないのだきっと、と私は思う。(佐野洋子)


深沢七郎の「生きているのはひまつぶし」とは、「生きているのは気晴らし」ということでもあるだろう。

われわれに課せられている人生はわれわれにとってあまりにも重荷で、われわれにあまりにも多くの苦痛・幻滅・解きがたい課題を押しつけてくる。人生を耐え忍ぶには、鎮痛剤Linderungsmittel が不可欠である(テーオドル・フォンターネも、「補助的フィクションHilfskonstruktionen なしではどうにもならない」と言っている)。

この種の鎮痛剤は、おそらく三種類に大別される。すなわち、われわれに自身の惨めさを軽視させてくれるほど強力な気晴らしmächtige Ablenkungen、われわれの惨めさを軽減してくれる代用満足Ersatzbefriedigungen、それに、われわれを自身の惨めさにたいして鈍感にしてくれる興奮剤 Rauschstoffe の三つである。なんらかの意味でこうしたものを欠くことはできない。『カンディッド』の最後を「自分の畑を耕せ」という忠告で締めくくったヴァルテールが意図したのは気晴らしであった。学問的な活動 wissenschaftliche Tätigkeitも、この気晴らしAblenkungの一種である。芸術が与えてくれる代用満足は、現実に対比した場合は錯覚 Illusionenにすぎないけれども、心理的効果の点では、幻想 Phantasie が人間の心理活動において占めてきた役割からいって、現実に劣らない。興奮剤は、われわれの身体組織に作用し、その化学構造を変える。宗教が、これら三つのどれに入るかを決定するのは簡単ではない。…(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

※このあとフロイトは昇華論を続けている(参照)。