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2018年8月8日水曜日

きみは女をなぐるかい?

武満徹に  谷川俊太郎(1972年)

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収、1975年)




ーー「今日着てきたコートも武満のものですよ。体形がぴったりだから」(谷川俊太郎、2014.12.03


武満が浅香さんをなぐったのを、私はただ一度だけ目の前で見た
ことがある。彼が音楽をつけたある芝居を、浅香さんが私たち夫婦
に同調して批判したのが理由だった。そのとき私はおろおろするば
かりだったが、いまはそれが愛情からだったということがよく分か
る、妻への、音楽への、そして生きることへの。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(アンソロジー、2018年)




冒頭に掲げた詩に「ぼくらの苦しみのわけはひとつ」とあったが、最近の『詩に就いて』(2015 年)にはこうもある。


世界と馴染めないところに詩の始まりがある
(⋯⋯)
少年は世界がここにあることが不思議で
平気で生きている人々になじめない

ーー谷川俊太郎「放課後」


もちろん世界と馴染み切っている人などいるのか、と問うこともできるが、ここでは素直に読んでおこう。

さらにもうひとつ。

「おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で
ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ

ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」より(『世間シラズ』所収、1995年)


⋯⋯⋯⋯

中井久夫の『治療文化論』には「現実の苦痛から逃れるための手段」として次のように記された図表がある。

①地理的救済(転居、転職、移住、移民、旅行、放浪(国内・国外))

②“歴史的”救済(現状のまま努力を倍加したり、スポーツなどを始めたりして、現状のパラメーターを変えようとする)(病い性を否認)。“歴史的”というのは、これまでの自己蓄積の上に立ち、それを増大させようとするから。

③超越的・宗教的救済(既存の軌道による)ーー坐禅、巡礼、仏門、修道院入り

④非宗教的・愛他的救済(他者の治療によって自己治療が代替される)--ヴォランティアなど → 時にプロの治療者となろうとし、時に成功する。

⑤美あるいは芸術による救済

⑥犯罪・ルール違反による救済

⑦叛乱ー英雄による自己救済

⑧宗教あるいは宗教等価物(自然科学あるいは他の分野も含む)

ーーみなさんもそれぞれどれかをやっているか、さらにより軽めの精神衛生維持方法をとっているはずである。

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。

通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には……)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』)

売春婦と精神科的治療文化とのつながりが示されているが、中井久夫はこの同じ『治療文化論』で、「精神科医の自己規定」として、精神科医は傭兵のようなものではないかと自問したあと、続けて「売春婦」のようなものともしている。

もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただの promiscuous なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』)