ミレールのこの小論は数年まえ、Lacan.comで行き当たったのだが、いつのものかわからない。現在はLacan.comからも消えてしまっている。
フロイトの三つの「性愛の心理学への寄与」論文、すなわち『男性における対象選択のある特殊な型について 』(1910)、『性愛生活が誰からも貶められることについて』(1912)、『処女性のタブー 』(1918)。
この三つは、私の見解では、真のラカニアンのテキストである。ラカンは自ら、ラカニアンではなくフローディアンだと言っている。そしてフロイトは自らをラカニアンではないとは決して言っていない・・・。私は心から信じている。この三つのテキストには真にラカニアン的フロイトがいる、と。この諸テキストは、ラカンのテキストの再読・再考を促してくれる。…それは、「或るひとりのラカン」を超えてゆくためにフロイトを読むことを意味する。「もうひとりののラカン」の助けを以て。(⋯⋯)
「性愛の心理学への寄与」論文の重要性は何か? フロイトにとっての問いは、男と女は互いにいかに関係するのかという、皆が実際に熟考している問いである。その意味は、男女の性関係を考える試み、その困難その袋小路に思いをめぐらす試みである。(ジャック=アラン・ミレール、A New Kind of Love)
それぞれの論文から、さわりを引用しておこう。
フロイトは、女性的「対象選択 Objektwahl」(= 囮 i(a)の対象選択)を「愛と欲望の収束」、男性的「対象選択」を「愛と欲望の分離」としている。そしてある型の男性は、《愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben. 》(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)、
場合によっては、《誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる》(『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
いやあピッタンコだな、「一盗二婢三妾四妓五妻」に。かつての?ボクにもピッタンコだよ
『処女性のタブー 』(1918)のほうは、《私の美はベラドンナ(毒薬)の美 Meine Schönheit ist die der Tollkirsch。それを享楽する Genuß 者は、狂気と死の餌食となる Ihr Genuß bringt Wahnsinn und Tod》なんてあるけど、ボクは美人には興味ないから、関係ないや。いずれにせよ毒薬はおことわりだね
いやまてよ、そもそも女ってのはみな毒薬女なんだろうか?
『処女性のタブー 』(1918)のほうは、《私の美はベラドンナ(毒薬)の美 Meine Schönheit ist die der Tollkirsch。それを享楽する Genuß 者は、狂気と死の餌食となる Ihr Genuß bringt Wahnsinn und Tod》なんてあるけど、ボクは美人には興味ないから、関係ないや。いずれにせよ毒薬はおことわりだね
いやまてよ、そもそも女ってのはみな毒薬女なんだろうか?
女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ。(ラカン S10, 1963, 摘要訳)