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2018年8月25日土曜日

不安神経症と不安ヒステリーの相違

以下、前回(外傷神経症と現勢神経症)の記述の派生物である。

「不安神経症」はとても平凡な名であり、ヒステリーの変種だろうぐらいに考えていたが、いくらか調べてみると、フロイトにとっては原症状に近い概念であることが分かった。わたくしが見るところでは、不安神経症とは「外傷不安神経症 traumatischen angstneurose」とでも呼ばれるべき症状なのである。だが現在の精神医学における論文においては、いくらか当ってみたかぎりでは、この不安神経症について大半はたいしたことを言っていない。寝言も多い。

まずフロイトは1917年にこう言っている。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核でありその最初の段階である。この関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリーKonversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症Angstneuroseと不安ヒステリー Angsthysterieとのあいだで最も明瞭に観察される。(フロイト『精神分析入門』1917年)

ここでの核心は、前回記したように、症状の地階に現勢神経症があり、上層部に精神神経症があるということである。そして不安神経症と不安ヒステリーの対比がなされている。

すなわち

(上階)     精神神経症     不安ヒステリー
      ーーーーー    ーーーーー
(地階)     現勢神経症     不安神経症

である。

次に1926年、フロイト70歳のときには次の記述がある。

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

精神神経症    抑 圧
ーーーーー   ーーーー
現勢神経症    原抑圧   (外傷神経症)

である。ここでは前回の記述に則って、フロイトが外傷性戦争神経症と記しているところを、より大きく外傷神経症とした。

さて今記した二つの分類をまとめるとこうなる。




ここでフロイトが不安神経症概念を最初に提出した1894年の論文に戻ってみよう。

・不安神経症 Angstneuroseと神経衰弱 Neurasthenie は…興奮の源泉や障害の誘引が身体領域 somatischem Gebiete にある。…他方、ヒステリーと強迫神経症は心的psychischem領域にある。

・不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

不安神経症は、心的なものではなく、身体的なものの原因からくるとある。そして、精神療法ーーこの当時はまだ精神分析概念はないのでフロイトはこう記しているーーでは対抗不可能だと。

《還元不能 nicht weiter reduzierbar》とあるが、これはラカンの原症状(サントーム)をめぐる発言にも同様に出現する。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975ーー「サントームと固着」)

しかも見ての通り、原抑圧という語が出現する。原抑圧とはラカンマテームではȺにかかわる(参照:三種類の原抑圧)。

ラカンは「不安」をめぐって一年間ぶっとおしのセミネールをしている。そこから一つの図を掲げよう。

(S10、13 Mars l963)   

ーーこの図のわたくしなりの読解は、「享楽の主体、欲動の主体、妄想の主体、幻想の主体」で示した。

ラカンは別に二種類の不安(表象内部の不安と表象の彼岸の不安)を区別しているが、後者は次のものである。

不安とは、寄る辺なさ Hilflosigkeitの 状況、乗り越ええない危険 danger insurmontable 状況への応答である。(ラカン、S10, 12 Décembre l962)

寄る辺なさHilflosigkeitという語を、フロイトは多用した。今はひとつだけ掲げよう。

生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

だが「不安神経症」がフロイトのこの記述にかかわる不安だとはここでは断言しないでおこう。とはいえわたくしの読解では、不安をめぐる核心はフロイトの次の考え方である。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』)

ラカンは後年のセミネール22にて、フロイトの『制止、症状、不安』に再訪している。そこでの不安の定義は、「現実界の任命 nomination du Réel 」である。

C'est entre ces trois termes :

- nomination de l'Imaginaire comme inhibition,

- nomination du Réel comme ce qu'il se trouve qu'elle se passe en fait, c'est-à-dire angoisse,

- ou nomination du Symbolique, je veux dire impliquée, fleur du Symbolique lui-même, à savoir comme il se passe en fait sous la forme du Symptôme, (S22、13 Mai 1975)

制止は想像界、不安は現実界、症状は象徴界の任命とあるが、ここでの「症状」とは原症状ではなく、精神神経症の範疇にある言語につながった症状である。

つまり「ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)」(ポール・バーハウ、2002)という原症状をマスクする症状の意味である(参照:症状の二重構造)。

こうしてラカン語彙を援用すれば、不安ヒステリーは象徴界の症状、不安神経症は現実界の症状となる。すなわち上に示した図を書き直せば、こうなる。



ここで右端下段の外傷神経症に注目しよう。前回も記したように、ラカンにとって現実界とは実質上「トラウマ界」である(参照)。したがってここまでの推論と前回の記述に則れば、不安神経症とは、外傷不安神経症となる。他方、不安ヒステリーとは表象に結びつけられた、あるいは言語に結びつけられた二次的な症状である。自由連想とは後者にしか効果がない。ゆえに(旧来型の)精神分析治療では対抗不能とフロイトもラカンも言うのである。


以上の記述は、わたくしが依拠することの多い、ポール・バーハウ他の次の文に促されたものである。

「現勢神経症」カテゴリーにおいて、フロイトが最も強調するのは、「不安神経症」である。……

フロイトの「不安神経症」は、DSMにおける「パニック発作」と「パニック障害」についての叙述と著しく重なり合っている。(ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK 、2007、pdf

⋯⋯⋯⋯

※付記

なおラカンの「不安」セミネールとは、21世紀に入ってからの主流ラカン派にとって、晩年のラカンにつながる最も重要なセミネールのひとつとされるものである。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)