神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018, pdf)
ミレールは、すでに1995年に精神病における「父の名の排除」を否定し、「S2の排除」を主張している。
「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」を「S2の排除 la forclusion de ce S2」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?(Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE 1995)
「S2の排除」とは、「S2なきS1」の世界のことである。これは基本的には、固有名に近似したものの散乱の世界であるだろう。
固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
※柄谷行人のマルクスに依拠する「社会性」「社会的なもの」の意味合いは、 「柄谷行人とともにラカンを」を見よ。
さてミレールは、精神病の主因は「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」とも言っている。
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013、pdf)
「父の名の過剰現前」とは、繰り返せば、「S2なきS1」の過剰現前と同じ意味である。
ーーとはいえ、ここでミレールのいう「父の名」とは、いまだ父性隠喩には至っていないが何らかの意味作用を生み出す原「徴示システム système signifiant」としての「最小限の縫合 la conjonction minimale」(ラカン、S3、11 Avril 1956)もおそらく含んでいる筈である。
なにはともあれ、父の名の過剰現前とは「S2なきS1のカオス」である。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ミレールはこの「S2なきS1」を1990年代には「ひとつきりのシニフィアン Le signifiant tout seul」とも呼んでいる。
後期ラカンのララング概念には、固有名の核があり(参照)、ミレールの表現「反復的享楽」「身体の自動享楽」等から、ドゥルーズ=ニーチェのリトルネロとしての永遠回帰をも想起もできる(参照:ララング定義集)。
『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)をも掲げておこう。
後期ラカンのララング概念には、固有名の核があり(参照)、ミレールの表現「反復的享楽」「身体の自動享楽」等から、ドゥルーズ=ニーチェのリトルネロとしての永遠回帰をも想起もできる(参照:ララング定義集)。
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)をも掲げておこう。
暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
⋯⋯⋯⋯
精神病/神経症が、「S2なきS1のカオス」の世界/「S1-S2のペアによる秩序」の世界であるとは、蓮實=ソシュールにおける「体系化されることのない積極的な差異の世界」/「体系化された否定的な差異の世界」とほとんど等価である。
彼(ソシュール)は、体系化されることのない積極的な差異なるものを明らかに知っている。「混沌たる塊」や「星雲」といった比喩で語っているものこそがそれでなければならない。そこには、体系化されることのない積極的な差異としての言語記号が無数におのれを主張しあうことで、カオスと呼ばれるにふさわしい風土を形成している。ソシュールが裸の言語記号を思考することを断念せざるをえないのは、そのひとつひとつが「イマージュ」を身にまとうことをひたすらこばみ、素肌のままであたりを闊歩するという野蛮さに徹しているからだ。これはなんとも始末におえない世界だとつぶやきながら、彼は思わず目を閉じ、耳を覆わざるをえない。
その瞬間、ソシュールの不可視の視界には、不在を告げるものとしての「イマージュ」をまとった「シーニュ」と、その体系にほかならぬ「ラング」とが、同時に音もなく浮上することになるだろう。『一般言語学講義』と『原資料』とに詳細に書き込まれているはずでありながら、「シーニュ」としてはそのように読まれることをこばんでいるのは、体系化されることのない積極的な差異の世界から体系化された否定的な差異の世界へのソシュールの余儀ない撤退ぶりにほかならない。ソシュールを読むにあって見落としてはならぬ肝心の記号は、おそらく、この差異の領域を隔てている差異をひそかに不在化してしまった「イマージュのソシュール」の身振りをめぐるものだろう。それは、差異に言及しようとするまさにその瞬間、それをすぐさま否定的なものだと定義せずにはおれず、差異の肯定を進んで放棄してしまうソシュールに対する『差異と反復』のジル・ドゥルーズの苛立ちを招いた身振りにほかならない。
⋯⋯いずれにせよ、「シーニュ」、「シニフィエ」、「シニフィアン」という三つの語彙がきわだたせる言語記号の定義が、ソシュール自身にとっての不幸にとどまらず、いまやその決算期にさしかかりつつある二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸なのもかしれぬという視点が、しかるべき現実感を帯び始めているのはまぎれもない事実だといわねばならない。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて ――ソシュールの記号概念をめぐって』「ルプレザンタシオン」第五号所収 1993年)
※参照:二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸