前回は敢えて記さなかったが、「女のことは女のほうが知っている」という思い上がりとは、「私のことは私のほうが知っている」という思い上がりがベースにある。
すなわち精神分析の最も基本的な洞察、フロイトの次の文と同じことである。
すなわち精神分析の最も基本的な洞察、フロイトの次の文と同じことである。
自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』)
「女のことは女のほうが知っている」という思い上がりの記述でベースとなった中井久夫の文を再掲しよう。
私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。(……)
他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていう-――水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。(中井久夫「世界における索引と徴候」1990年)
とはいえ、これはなにも精神分析の世界だけの認識ではない。まともな思想家がすでに言っていることと相同的である。ここではニーチェとヴァレリーを掲げておこう。
真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)
まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。
愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ 中井久夫訳)