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2018年8月18日土曜日

「女のことは女のほうが知っている」という思い上がり

二年前、上野千鶴子さんの鳥語に感嘆したことがある。

@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。(上野千鶴子、2016 05.24)

なんとよくご存知なことだろう、男について。とくに多神教社会日本における前エディプス的男について、と。男たちにはなかなか気づき難く表現し難い、簡にして要をえた表現である。ここには若いころ俳句をたしなまれたせいもあるだろうーー〈葬ひのある日もっとも欲情す》--言葉の扱いにじつに巧みな、社会運動家としての美的表現がある。

《女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする》--、これを日本的と呼ぶのは、一神教社会ではこのたぐいの男は少なかった筈だろうから。

もちろん父の権威の斜陽、いやもはや崩壊の時代の欧米先進諸国でもいまや日本的前エディプス男が輩出しているのだが、まだかろうじて父の名が機能しているのは、一神教の伝統の残りかすがあるせいだろう。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ーーここでの記述は可能な限り、上野女史がひどく尊敬されている中井久夫に則ることにしよう。

母なる「共感の共同体」日本ーー中井久夫の言う「もともと父の権威などなかった」日本ーーその日本社会において欧米のフェミニズム運動をそのまま「直訳」し、「家父長制と闘う」などと勇ましく(ピントはずれに)叫びまくり、さらにいっそうの前エディプス男の跳梁跋扈を日本にもたらした原動力としてのインテリ知識人のひとりが誰であったかなどとという野暮な問いをここで追うことはしない。そんなことはまともな頭脳の持ち主なら今では誰もがわかりきっているだろうから。

ここでの問いはもっと本質的なことである。すなわち、

男のことをよく知っているのは、男ではなく女ではなかろうか。
女のことをよく知っているのは、女ではなく男ではなかろうか。

⋯⋯⋯⋯
表題を「「女のことは女のほうが知っている」という思い上がり」としたが、(わたくしの考えでは)ある前提に立てば精神分析的にはそうでありうるという意味である。
中井久夫は次のように言っている。

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。(中井久夫『治療文化論』1990年)

この言明をすぐさま否定できる人がいるとは、わたくしには思えない。もっとも売春婦や精神科医を訪れる顧客は片寄りがあるという反論はあるだろう。だがわたくしは逆に、あれらの顧客のかかえている内実は、人間のエッセンスだという立場を取る。
だが売春婦の顧客は、基本的には男である。とすれば、精神科医が最も女と「ヘヴィな対人関係」を結んでいることになる。
とはいえ現在、精神科医のデフレーションがある。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)

この意味で、女性に対する臨床心理士のひとつの形態でありうるホスト、あるいはAV監督の役割は侮れない。あれらは「カウンセリング行動」でありうるのだ。

ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』)

ここでシンプルな問いを提出してみよう。わたくしは最近のAV監督を知らないので古い名を挙げるが、突出したカウンセリング的AV監督代々木忠と巷間の標準的なひとりの女とは、どちらが女というものについてよく知っているだろうか? と。
もっとも「女のことは代々木忠のほうが知っている」と言い放ってしまうつもりは毛ほどもない。だが彼ほど多数の女たちと「ヘヴィな対人関係」を結んできた人は数少ないのではなかろうか。
上野女史がじつにオキライらしい吉行淳之介のいう次のようなことを如実に感じとっているのか否かは実のところ窺い知れぬにしても。

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)

「代々木忠」に代表される「カウンセラー」としての男たちも完璧ではもちろんないのは当たり前である。たとえば男性の精神科医も代々木忠も子宮がない。ギリシア神話のティレシアスになったこともない、ーー《性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である》(テイレシアス)。
とはいえ吉行が次のように言うとき、男のわたくしとしては傾聴に値すると感じてしまう。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』ーーラカン派的子宮理論

この「女は子宮で考える」の意味するところは、穏やかに言えば「女は身体で考える」である。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。
Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

ここでさきほどの問いを言い換えれば、「女は身体で考える」ことを女のほうが知っているのだろうか、男のほうが知っているのだろうか?

後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。

われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS, 2004、PDF

「外密」、「異者」という用語が出てきているが、いくらか詳しくはーーたとえばフロイト・ラカン自身の言葉のいくつかはーー「ひとりの女とは何か?」を見よ。

ここでは次の簡潔な三文のみを引用しておく。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

仮に人が「女は身体で考える」、すなわち自らの内部の異者のことを女のほうが知っているという立場に立てば、論理的には女性の精神科医・臨床心理士が最も女を知っているということになる。ただし「優れた」という形容詞を必ずつけねばならない。さらにこの女性たちが男性の治療者と対面するほどの「ヘヴィな対人関係」(転移)が生ずるか否かは、わたくしの知るところではない。その意味で、女同士で最も「ヘヴィな対人関係」(転移)を結ぶのは、ひょっとしてレスビアンの女性たちかも知れないが、関係数頻度は臨床家にははるかに劣る。

⋯⋯⋯⋯

中井久夫は《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからない》としているが、「女のことは女のほうが知っているという思い上がり」という挑発的表現は、何よりもまずこの認識にかかわる。

私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。(……)

他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていう-――水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。(中井久夫「世界における索引と徴候」1990年)

ーー中井久夫の「メタ私」概念は、(一般に流通する)フロイトの無意識よりももっと広い概念と自ら言っていることを注記しておこう。
一般に流通するフロイトの無意識とは「抑圧された無意識」である。だがフロイトには「抑圧されていない無意識」概念もある、《抑圧されていない Ubw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw 》(『自我とエス』1923年)。
「抑圧された無意識」とは、前期ラカンの《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というときの無意識である。だが後期ラカンの無意識の核心は「抑圧されていないシステム無意識」である。フロイトはこのシステム無意識を原抑圧という用語でも語っているが、原抑圧とは実際は抑圧ではなく、固着(欲動の固着)である(参照:ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある)。
現在のラカン派では「言存在 parlêtre」という用語が強調されているが、これが固着によるシステム無意識にかかわる概念である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
「言存在 parlêtre」用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

中井久夫のラカン読解には、1990年代のこと、前期ラカンどまりの時代のことでやむえないこととはいえ、《抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw 》の側面が欠けている。たとえば次の文はあきらかな誤謬である。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

こうではないのである。ラカンにとって言語は現実界的シニフィアンもある、それが純粋シニフィアン・記号である。後者が中井久夫が1990年代から強調している《「もの」としての言葉》(参照)である。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。》(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

フロイトにもすでに「事物表象 Sachvorstellungen」「語表象Wortvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」の三区分がある。これはラカン語彙に変換すれば、イマーゴ、象徴的シニフィアン、純シニフィアン(ララング)である。

もっとも中井久夫は、フロイトの精神神経症/現勢神経症の後者を阪神大震災以後しきりに強調するようになっており、これは90年代のラカン誤読(さらに言えばフロイト読解においてもやや欠けていた箇所)を補ってあまりある。現勢神経症こそシステム無意識(原抑圧=欲動の固着)にかかわるのだから。

フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」


さて理論的には上のようなことが言えるとわたくしは考えているが、中井久夫の言明、《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか》とは、限りなく正鵠を射ていると思う。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)

ーー中井久夫による超訳エリオット(四つの四重奏)である。

中期以降のフロイトにとっても、なによりもまず大切なのは、何を言っているかではなく、どんな行為をしているかである。

被分析者は、忘却されたもの Vergessenen、抑圧(放逐)されたもの Verdrängtenから、何ものかを「想起するerinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわすagieren」。彼はそれを(言語的な)記憶としてではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復 wiederholen している。(フロイト『想起・反復・徹底操作 Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten』、1914)

そもそも発話内容・言表内容など全く当てにならない。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』)

当てになるとしたら言表行為である。

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)

………

ここまで記してきたことは単純化のために、次の男女の「性癖」を考慮していないことを断っておこう。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996 の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)

日常的においても、男は女を観察する、場合によってはその「無意識」まで。だが女は男が女を観察するほどには、男を観察せず、ナルシスティックに自分のことを考える傾向にある。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠組にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。「他者は私のなかになにを見ているのかしら?」 という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、Less Than Nothing、2012)

フロイト・ラカン派において、女というものは、原抑圧にかかわる用語である。

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

※一般にはかなり難解だが、よりいっそうの理論的注釈としては、「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」を見よ。