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2018年8月17日金曜日

知の欲動の起源としての妣孔

フロイトにとってヒト族の「知の欲動 Wißtrieb」の起源は、《子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎》(『性欲論三篇』1905年)である。フロイト・ラカン派精神分析において、後年に湧き起こる他のすべての知の探求はこの原初の知の欲動の昇華にすぎない。
したがってジャック=アラン・ミレール はこう言うのである。

精神分析は入り口に「女というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)

しかし《我々は土台を問題にすることをすぐに忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ》(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)ーーだからあの誰にでもあったはずの原初の問いを忘れてしまう。

老子の「玄牝之門」、プラトンの「コーラ χώρα」、ハイデガーの「杣径 Holzwege」、折口信夫の「妣の国」等、まともな思想家ならすべて御牝孔をめぐっている。ヘーゲルの「世界の夜 Nacht der Welt」、ニーチェの「私の恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin」「メドゥーサの首 Medusenhaupt」等も実質的にはそうである。ただまともな思想家が21世紀という知的退行の時代、稀有になってしまっただけである。

出産外傷とほぼ等価なものを強調するフロイト・ラカンの観点(参照)から隠喩的にいえば、人はみな御牝孔の穴ーーラカンは「ブラックホール un trou noir」「黒いフェティッシュ fétiche noir」「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」等とも呼んでいるーーの引力に対して魅惑と戦慄をおぼえつつ循環運動をしているのである。
エロスとタナトスは、融合と分離 Vereinigungen und aufzulösenである。同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenであり、引力と斥力 Anziehung und Abstossung である。いまだフロイトの言葉を文字通り読むだけのインテリ連中、その模索彷徨の痕跡を読まない・読めない教養あるマヌケたち、すなわちタナトスが「死」の欲動だと思い込んだままの学者連中は、知的銃殺刑に値する。
むしろ究極のエロスが死である。御牝孔の穴に咥え込まれて消滅すること、これがエロスであり死である(女性の場合はどうか? これは記述が困難であるが、ここではウロボロスを想起すべきだと言っておこう。十分な記述ではないが、「無を食べる女たち」もいくらかの参照になる)。

もちろんラカン的にもうすこし穏やかに言ってもよい。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

とはいえこの発言も結局は次のようなことを暗示しているのである。




御牝孔の穴という表現がおきらいな方もいよう、その方々のために、フロイトがシェイクスピア論で記した「母なる大地 Mutter Erde」「沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin 」と言い換えてもよろしい。
ようするにエロス欲動とは、究極の融合という死に向かう欲動である。タナトス欲動とは、エロスの引力に魅惑されつつも究極の融合に戦慄し、そこから分離しようする運動、反発化・斥力の欲動であり、究極のエロスのまわりの循環運動である。
したがって人には二つの根源欲動の欲動混淆 Triebvermischung が常にある。人は荒木経惟の造語「エロトス」をけっしてみくびってはならないのである。
日本ラカン派社交界(学会・言論界)においては、享楽 jouissance という語がいまだほとんど理解されていないようにみえる。ラカンは享楽という語を剰余享楽 plus-de-jouir の意味で使っていることが多い。贔屓目にみればそれゆえの混乱である。実際はエロスとタナトスの問いをうっちゃっているためのボケぶりであろう。

人は、彼らの寝言をきくのはやめにしなければならない。真に問う力があれば、究極のエロス=究極の享楽=死であることが瞭然とする。死は享楽の最終形態に相違ないのである(参照)。

そして究極の享楽は、生きている存在には不可能であり、ゆえに享楽の不可能性というのである。剰余享楽とは不可能な享楽の「残りかす」という意味である。享楽/剰余享楽とは、厳密さを期さなければ、エロス/タナトスの関係にあるのは間違いない。
それがラカンのセミネールの1972-1974年にかけて何度もあらわれる次の図の示していることである。




話を元に戻せば、言語を使用するヒト族にとって、すなわち知の欲動をもつ人間種において、最も肝要なのは、「世界の起源 L'Origine du monde」を問い続けることである。

とはいえ問い続けてもどうにもなるものではないという立場もあろう。ある程度の悟りの境地に近寄れば、ひとは、大江健三郎のように《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》しなければならないことに気づいたり、谷川俊太郎のように「なんでもおまんこ」というようになったりするのかもしれない。あるいは西脇順三郎のように女の放尿の放物線を崇敬する、すなわち女から/生垣へ/投げられた抛物線は/美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」という生き方が処世訓としてありうる。ああ、「土を思い白鳥のように/濡れて野にしやがむ女の薔薇水の」ーー。

もちろん放尿線だけではない。生垣に穴をあけて接木を眺めるのもとても大切である。

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

やはり真の詩人は、死ぬまで「世界の起源」を問い続けていたのであろう。

ラカンのカントリーハウスには、ギュスターヴ・クールベの「世界の起源」が覆いをかけられて飾ってあった。



まさに《享楽のヴェール voilement de la jouissance》(S19)の仕掛けである。こんなものはいつもみているわけにはいかないのである。ゴダールはこのクールベの画を映画のなかで何度も使っているが、自画像のなかではいくらか穏やかに同じクールベの「白い靴下の女」への愛をこっそり示している。


(Gustave Courbet: La Femme aux bas blancs)

このくらいの作品だったら薔薇水や垣根の穴の系列に入ってバックリ感はわずかであり、穏やかな生のための処世訓的画であるとしてよい。

なにはともあれ世界の起源、最初の世界、原大他者は母に他ならない。この原大他者を最晩年のフロイトは、「偉大な母なる神 große Muttergottheit」と呼んだのである。もっとも多くの場合(とくに一神教社会)では、《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(『モーセと一神教』)。この叙述は、人間の発達段階の隠喩として読まねばならない。

そしてフロイトの「偉大な母なる神 große Muttergottheit」を、ラカンは次のように言い換えたのである。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
父などというものは、偉大なる原母たちの諸名の一つに過ぎない。

ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。

フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である(『モーセと一神教』)。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)

母胎内から考えても出生直後を考えても、最初の世界は母、つまり女である。現在は稀な例外がいくらか増加しつつあるとしても。

この女は私たちの原支配者である。その意味は、乳幼児は母あるいは母親役の形象に対して、最初は必ず受動的な立場に置かれるということである。かつまたこの母なる形象は、身体の世話に伴った快不快を引き起こす「最初の誘惑者 ersten Verführerin」(フロイト、1940)である。つまり母-女は原セクシャルハラスメント者なのである。ことわっておけば、これは構造的な問題であり、女というもの自体には何の咎もない。
こういったこともあり、女流ラカン臨床家の第一人者コレット・ソレールは、母=原穴の名(原トラウマの名)というのである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…「原穴の名 le nom du premier trou 」(「原トラウマの名」)である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

このトラウマを人はみな穴埋めしなければならない。それが、ラカンの「人はみな妄想する」の真の意味である。
逆方向の言い方をすれば、

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

である。このトラウマをラカンは、「穴ウマ troumatisme」とも言っている。なんの穴かはもう繰り返さない。