このブログを検索

2018年8月22日水曜日

分裂病と外傷性神経症

まず中井久夫のこの文に出会ったんだな。

統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

ボクが6歳のとき、母は分裂病(統合失調症)と診断されたのだけど、思い返してみると、あきらかに戦争神経症なんだ、食事のときテレビニュースなどで戦争の場面がすこしでもあると、紅潮し身体を震わせ立ち去るかテレビを消す等々があったから。

で、中井久夫のトラウマ論を追っていくと、現実神経症(現勢神経症)という語が頻出するんだ。

戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
中井久夫)フロイトは神経症を三つ立てています。精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。彼がもっぱら相手にしたのは精神神経症ですね。後者の二つに関してはほとんどやらなかった―――あるいはやる機会がなかったと言った方がいいかもしれないけど。フロイトの弟子たちも「抑圧」中心で、他のことはフロイティズムの枠内ではあまりやっていませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離)

通常人は、精神神経症なんだ、そのあたりにいるミナさんはね(参照:フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」)。

ま、かならずしもそうはいえないかもという立場だけど、ボクは。それはこの際どうだっていいや、ただボクはなんでこんなにヘンなんだろうな、とは小学校の五六年のころから思ってたな・・・

でもそんなことはどうだっていいことさ、いままだ生きてるからな。中井久夫をもうすこし引用しておこう。

今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングいよれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。
もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002.9『徴候・記憶・外傷』所収)

フロイトをすこしはマジで読んでみようと思ったのはこういったことからだね。

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

で、ラカン派はどんなこと言ってるか、と探ってみると、ポール・バーハウだけだね、正面からトラウマを扱っているのは。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013)

バーハウの書や論文をいくつか読んでいくなかで次の記述に出会ったんだな。

心的外傷後ストレス障害 (PTSD) は、トラウマの自動的な結果ではない。実証研究の報告が示しているのは、主体的介入要因があるに違いないことである。概念的推論の基礎にもとづくと、トラウマ的出来事に先行する「現勢神経症 Aktualneurose」構造の存在が、PTSDの展開の前提条件として前面に出てくる。現勢神経症についてのフロイト理論は、欲動から来る興奮を象徴的な方法で加工することの不可能性として解釈されうる。この不可能性の理由は、欲動統制のために必要不可欠な象徴的道具を幼児に提供することにおける最初の養育者の失敗に探し求められる。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD by Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule 、2005)

これが正しいかどうかは議論の余地があるだろうよ、しかもポリコレにも問題含みだからな。トラウマ的出来事にあっても、たとえば震災にであっても、PTSDになりやすい資質とそうでない資質があって、なりやすい資質のひとは最初の養育者、つまり母が悪いってんだから。

ボクはちょっとしたことでも後々まで影響が残るけどさ・・・

多くの調査研究が示しているのは、トラウマ経験は心的外傷後ストレス障害の展開にとって必要不可欠だが十分条件ではないことである。(Paris.J, 2000, Predispositions, personality traits, and posttraumatic stress disorder. Harvard Review of Psychiatry)

予想されるように、ホロコースト生存者の子供は、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子供にトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD、The Impact of the Other 、by Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule、2005)

ーーこの文にはちょっと絶句気味だったな・・・

こうもある、別の論文には。

DSMにおける「パニック障害 panic disorder」、「身体化障害 Somatization disorder」 、「分類困難な身体表現性障害 Undifferentiated somatoform disorder 」には、底に横たわる共通の心的構造がある、とわれわれは信じている。この構造は、フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」概念を基礎にすると最も理解しやすい。(ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK 、2007)

このたぐいの人はそれなりにいるんじゃないかな、たとえばパニック障害はよくきくから。

・・・・いやあ、もう何も言わないでおくよ。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

 中井久夫の論には異物まで出現してるんだ、ラカンの対象a、あるいは異者としての身体だけど。

トラウマ(心的外傷 psychische Trauma)、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ま、世界にはいろんな人がいるよ、あんまりがたがたトラウマといわないことだな。人はみなトラウマ化されてんだ、その根はね。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

奇妙な・不気味な・外的なものが、中井久夫やフロイトのいう「異物」だ。

で、次の考え方が現在の主流ラカン派の結論だ。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

でも、しっかり妄想するタイプは、根にあるトラウマに不感症になれるらしいよ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この立場をとれば、精神神経症の連中は、しっかり妄想組の「父の版の倒錯者」なんだ。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

いいんじゃないか、シアワセそうで。たとえばまがおでDSMを信じ込んで、そのDSMをもとに「科学的に」トラウマ論かいてるエライ先生なんてのがそれだね。

人は、こまやかさの欠如によって科学的となる。(『彼自身によるロラン・バルト』)
怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)