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2018年12月12日水曜日

ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」

「非抑圧的無意識」としたが、「抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw 」のことである。

ラカンの「言語のように構造化された無意識」ーー《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》ーーが、「抑圧された無意識」であり、他方、身体の出来事へのリビドー固着(身体の上への刻印)が、「抑圧されていない無意識」である。

・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントーム(原症状)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。((ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER、2014)


※下段は、ミレール2005年セミネール冒頭より。


フロイト自身による「非抑圧的無意識」の記述は次の通り。

われわれの無意識的なものに関する見解にとっての帰結は、いっそう重要である。力動的考察は、われわれに第一の訂正をもたらし、構造の洞察はその結果として、われわれに第二の訂正をもたらす。すなわち、無意識的なもの Ubwは、抑圧されたものと一致しないことをみとめなければならない Wir erkennen, daß das Ubw nicht mit dem Verdrängten zusammenfällt;。あらゆる抑圧されたものはubw〈=無意識的〉であるが、Ubw〈=システム無意識〉はすべてが抑圧されてもいるとはかぎらない daß alles Verdrängte ubw ist, aber nicht alles Ubw 。これはあくまで正しいのである。

自我の一部分もまたーーそれが自我のどんな重要な部分であるかは神のみが知る--無意識的 ubw であるかもしれない。いや、たしかに無意識的 ubw である。

そして、この自我のUbw〈=システム無意識〉は、Vbw〈=システム前意識〉という意味で潜在的なのではない dies Ubw des Ichs ist nicht latent im Sinne des Vbw。そうでなければそれは、bw〈=意識的〉となることなしに活性化するわけにはいかない。そしてそれの意識化が、それほど大きな困難をひきおこすことはありえないだろう。

ところで、第三の、抑圧されていない無意識 〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw (非抑圧的無意識)を立論する必要にせまられるとすれば、そのときは無意識性 Unbewusstsein の性格がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。(フロイト『自我とエス』第1章、1923年)

「抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw 」とは原抑圧のことである。原抑圧とは抑圧ではない。抑圧とは表象(シニフィアン)が抑圧されるのであり、表象がなにもないところに抑圧はない。リビドー固着(欲動の固着)しかない。固着については「原抑圧・固着文献」にて比較的詳細にみたので繰り返さない。

フロイトにおいてまだ原抑圧概念がない時期の『夢判断』(1900)にて、「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」「夢の臍 Nabel des Traums」「菌糸体 mycelium」と呼んでいるものがリビドー固着に相当する。これを、最晩年のフロイトは(『終りある分析と終りなき分析』1937)、「欲動の根Triebwurzel」と呼んだ。


ここで、フロイト寄りのラカン派臨床家ポール・バーハウの簡潔明瞭な文を掲げる。

フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」における無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwを表す。

これらは、欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、力動的無意識あるいは抑圧された無意識は、「無意識の形成」と等価である。

無意識の力動的相は、症状の部分がいかに常に意識的であるかに関係する。事実、口滑りは声に出されて話される。だがそれは同時に無意識的レイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)

「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」/「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」のポジションを「人はみなナルシシストである」で試みたボロメオの環変奏図を使って図示すれば次のようになる。





フロイトの「事物表象Sachvorstellung」と「語表象Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)


このシステム無意識あるいは非抑圧的無意識について、ポストフロイトの精神医学界ではほとんど全滅的に理解されていない、とポール・バーハウは2010年前後のインタヴューで言っているが、それはフロイト研究者においてさえ同様である。もちろん日本フロイト派においても、地の底を這ってフロイト以前に退行している連中しかいない筈である・・・

ま、日本ラカン派においては、地上に出ているようにみえる人物がいくらかいないでもない。とはいえそれも数人のみで、わたくしの見るところ片手さえあれば足りる。

なにはともあれフロイトを現在まともに読むためには、ラカン派を通さざるをえないのである。

私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)


最晩年のラカンの《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(S 25, 10 Janvier 1978)とは、フロイトの言う《自動反復 Automatismus》のことである。

⋯⋯⋯⋯

※付記

事物表象と語表象についての資料貼付。

以下の文に備給(=カセクシス)という語が出て来るが、フロイトは(場合によっては)《「備給 Besetzung」を「リビドーLibido」に置き換えてもよい》(フロイト『無意識』第4章)と言っている。

われわれが意識的対象表象 bewußte Objektvorstellung と呼ぶことのできるものは、いまや「語表象 Wortvorstellung」と「事物表象 Sachvorstellung」とにわけられる。事物表象は、もし直接の事物記憶イメージ direkten Sacherinnerungs-bilder ではないとしたら、少なくとも、より杳かな entfernter 記憶痕跡 Erinnerungsspuren の備給 Besetzung によって成りたっている。

今ただちにわれわれは、意識的表象 bewußte Vorstellung がなにによって無意識的表象から区別されるかがわかると思う。両者は、われわれがかつて考えたように、異なった心的場における同一の内容の異なった記憶ではなく、またおなじ場における異なった機能的な備給でもなく、意識的表象bewußte Vorstellung は、事物表象 Sachvorstellungとそれに属する語表象Wortvorstellungとをふくみ、無意識的 unbewußte 表象はたんに事物表象Sachvorstellungだけなのである。

システム無意識 System Ubw は、対象の事物備給 Sachbesetzungen der Objekte つまり最初で本来の対象備給 Objektbesetzungen をふくんでいる。

システム前意識 System Vbw は、この事物表象Sachvorstellungが、それに相応する語表象Wortvorstellungenと結合して重層備給 überbesetztをうけることによって生ずる。

このような重層備給は、高次の心的体制をもたらし、一次過程 Primärvorgangesを、「前意識 Vbw」を支配している二次過程 Sekundärvorgang によって交代することを可能にするものであると、推測することができる。

われわれはいま、転移性神経症 Übertragungsneurosenにおいて抑圧 Verdrängung が、退けられた表象について拒否している zurückgewiesenen Vorstellung verweigert ものが何かを、正確に表現することができる。

それは、対象に結ばれる語に翻訳することである Die Übersetzung in Worte, welche mit dem Objekt verknüpft bleiben sollen。語のうちにとらえられない表象、あるいは重層備給をうけない心的作用は、「無意識」の中で抑圧されたものとして置き残される Die nicht in Worte gefaßte Vorstellung oder der nicht überbesetzte psychische Akt bleibt dann im Ubw als verdrängt zurück. 。(フロイト『無意識について』第7章、1915年)
私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

⋯⋯⋯⋯

ごく最近でも京大だったかの心的外傷(解離)の第一人者らしい学者が、いまさら古いフロイト云々と言っているのを読んだことがあって、心的外傷については、お前さんなんかより100年ぐらいフロイトは先行してるよ、と言いたくなってしまったが、ま、彼だけではなくそのあたりのヘボ学者たちは実にもはやフロイトをほとんど読んでいないか、掠め読みしかしていないのである。

フロイトが古いというのは、カントやヘーゲル、あるいはデカルトやスピノザが古いというのと同じである。

シツレイながら彼らは20代のニーチェにさえまったく至っていない。

・言語の使用者は、人間に対する事物の関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。

・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)




ーーΦφ とは、ニーチェのいう「揮発 verflüchtigen 」記号である。フロイトはそれを去勢と呼んだ(参照:四種類の去勢)。

基本的にはどの記号にも空集合がある、というのは集合論の基本である。ラカンは∅をときに(a)とした。





ラカンは、上の図の空集合の場に相当するものを、《骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]》(  S23、11 Mai 1976)とも呼んだ。骨とは身体の上に突き刺さった骨のことであり、文字対象aは、コレット・ソレールにより「文字固着 lettre-fixion」 と言い換えられている(参照)。ようするにリビドー固着(身体の上への刻印)である。

現在、ラカン派では、《空集合としての穴 le trou comme ensemble vide (Ø)》とも表現されていることも付記しておこう(Le trou du regard, pdf, 2017)。.ラカンにおける穴とはトラウマのことである。

ラカンは別に、《女というもの La femme は空集合 un ensemble videである 》(S22、21 Janvier 1975)ともした。このラカンの言っている意味合いとは直接的には異なるが、幼児に最初に骨象を突き刺すのは、母女に決まっているのである。そう、《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin 》(ニーチェ、ツァラトゥストラ)に。





わらべうた ペーター・ハントケ

子供は子供だった頃
樹をめがけて 槍投げをした
ささった槍は 今も揺れてる

傷は、それを負わせた槍によってのみ癒されうる die Wunde schliesst der Speer nur, der sie schlug( ワーグナー、Parsifal)