このブログを検索

2018年12月4日火曜日

四種類の去勢

ラカンの思考において「去勢」には少なくとも四種類ある。

まずフロイトを引用することから始めよう。次の1909年の論文とその1923年註には、三つの去勢が語られていると捉えうる。

ハンス少年はあるとき厩舎に行き、雌牛の乳しぼりを見る。

「ほら、おちんちんからミルクが出ているよ」

すでにこれらの観察から期待できるのは、ハンス少年に見られたものの大部分とはいわないが、その多くは子供の性的発展に現われる典型的なものらしいということである。女子に、男性性器を吸うという考えが見出されても、さして驚くにはあたらないということを私はかつて論じておいた。このけしからぬ興奮のよってきたる原因は、非常に無邪気なもので、つまりそれは、母の乳房を吸うことに由来するのであり、その場合雌牛の乳房はーーその機能上からいうと女性の乳房、形態および位置からは陰茎――格好の仲だちとなるのである。幼いハンスの発見は私の主張の後半の証明をしている。

さておちんちんに対する彼の興味は、単に理論的な面だけにとどまらず、予期された通り、彼に性器接触への興味を起こさせる。三歳半のときペニスをいじっているところを母に見つかる。

母は脅かす。「そんなことをしていると、A先生に来ていただきますよ。先生はおちんちんを切っておしまいになります。そうしたらどこでおしっこをするの?」

ハンス「お尻」

彼は罪悪感も抱かずに返事をしているが、この機会に「去勢コンプレクス」を獲得している。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年)
〔1923年註〕去勢コンプレクス理論はこれを書いて以来、ルー・アンドレアス(サロメ)、A、シュテルケ、F・アレクサンダーらの貢献によってさらに拡大されることになった。乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。このコンプレクスのこれらすべての根源を容認したうえで、私はしかし、去勢コンプレクスという名称はペニスの喪失と結びついた興奮や影響にかぎるべきであると主張した。(同上「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

ーーここに想像的去勢としての「おちんちんを切ってしまう」、現実界的去勢としての「母の乳房の喪失」「糞便の喪失」、原去勢としての「母からの分離」が記されていると捉えうる。

もっとも今記した二番目の「母の乳房の喪失」「糞便の喪失」にかかわるものとして、初期フロイトには、原抑圧として機能する「境界表象 Grenzvorstellung 」(1896)という表現がある[参照]。こちらの表現のほうがよりラカン派的な現実界的シニフィアン S(Ⱥ)ーー幼児の欲動興奮を飼い馴らす最初の鞍「母なるシニフィアン le signifiant maternel」--にふさわしい。これは晩年のラカンが骨象 osbjet (文字対象a[la lettre petit a]=文字固着 lettre-fixion)と呼んだものと等価である(参照:想像界の復権と骨象a[osbjet a])。

これこそ後年のフロイトが「リビドーの固着 Fixierungen der Libido 」と呼んだものの内実である。この固着による去勢とは先ず、身体的なものの去勢(欲動代理 Triebrepräsentanz)として捉えられるが、この身体的な欲動は十全には心的装置に翻訳されず、かならず身体的なものの残存物=異物がエスのなかに居残る。ここにラカンの対象aの核心的な意味合いのひとつがある(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。


さて上のフロイトに戻れば、「あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration」  、原「母からの分離」としての出産とは、1926年の論文には「母の去勢 Kastration der Mutter」として記されている。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

もっとも出産時の乳幼児にはその意識はないことをフロイトは強調してもいる。この原去勢は「遡及性 Nachträglichkeit」概念を適用してのみ、人間において感受される。

具体的にはーー例えばーー、「知の欲動 Wißtrieb」の起源としての《子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎》(『性欲論三篇』1905年)の直面したときに、「原去勢」が遡及的に再構成されうる場合があるだろう。

このフロイトの遡及性について、ラカンも次のような形で繰り返している。

人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)
原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959)
原初 primaire は…最初ではない pas le premier。(ラカン、S20、13 Février 1973)


こうしてフロイトにおいても三つの去勢があることが示された。もっともフロイトにとって、「事物表象 Sachvorstellungen」(イマーゴ)が「語表象 Wortvorstellungen」(シニフィアン)に翻訳されるとき生ずる喪失は、去勢という語を使っていないにしろ、何よりもの前提条件だったのかもしれない。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

ーー同化不能なモノdas Dingとは心的装置に翻訳不能なものという意味である。

とはいえここでは、ラカンによって最も強調された象徴的去勢「言語による去勢」に敬意を払おう。

シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


さらに次の文をつけ加えておこう。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

(……)結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初にある le refoulement originaire était premier という考えに傾いていったのである。(ラカン『テレヴィジョン』AE529-530, Noël 1973)


以上によりボロメオの環を使って、次のように四種類の去勢を示すことができる。






フロイトにおける「原去勢」とは「子宮内生活」(母子融合)の喪失を意味する。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年第10章)

そしてラカン的には、ボロメオの環で示したように、原去勢の周りに三つの去勢がある。しめて四つの去勢である。

「原去勢」について、ラカンから直かに引用すれば、次の二つの発言がそれを最も鮮明に表している。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


最晩年のラカンの次の「享楽=去勢」とは、ここまで記してきた文脈のなかで捉えうる。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


⋯⋯⋯⋯

※付記

ボロメオの環の中心の(a)について、ラカンは《すべての享楽にとってその条件となっている au regard d'aucune jouissance, sa condition》ものとしての「剰余享楽」だと言っている(三人目の女 La Troisième、1er Novembre 1974)[参照]。

だが剰余享楽とは次の意味がある。

仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009
対象aは、「喪われたもの perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪われたものを埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
剰余享楽 le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「剰余享楽 plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


要するに(a)とは、《もはや享楽は全くない》という意味があるのである。

したがって、(- φ) =(a)=(- J) である。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

より厳密に言えば、(a)=(- φ) ではなく、(穴Ⱥのシニフィアンを含めて、次のように記述しうる(参照:症状の線形展開図)。