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2018年12月13日木曜日

男性の同性愛における母との同一化

愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)

以下、同性愛をめぐる文献集である。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

ーー今こうやって、ミレールを引用したが、この見解に全面的には納得できているわけではない。女性の同性愛については理解できる。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

だが男性の同性愛については十分には納得できていない。

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フロイトにおける男性の同性愛の記述を列挙する。

・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)

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フロイトは男性の同性愛についてほとんど同じ内容を繰返している。以下、四つの論文から引用する。ほとんど同じ内容だが、細かい用語遣いの相違をみるために四つとも引用する。

われわれが調べたすべての事例について確認されたのは、のちに性対象倒錯者になった者は、その幼児期の初めの数年に、非常に強烈な、だが短期間の女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着)の時期をへてきていることである。そしてその女への固着を克服して、女との同一化 sie sich mit dem Weib identifizieren をし、自分自身を性対象 Sexualobjekt として選ぶようになる。すなわち、ナルシシズムから出発して、自分自身に似た男性を探し求める。そしてこの母との同一化した者たちは、母が彼らを愛したように、この彼らに似た若い男を愛する。

さらに、われわれはまた実にしばしば見出したのは、この性対象倒錯者たちが女性の魅力 Reiz des Weibesにまったく無感覚なのではなく、女性によって惹起された興奮 Erregung をたえず男性の対象に移行させている männliches Objekt transponierten ということである。彼らはこうして、その全生涯にわたって性対象倒錯を成立させたメカニズムを反復している。男性への強迫的追求 zwanghaftes Streben は、彼らの「やむことなき女からの逃避 ruhelose Flucht vor dem Weibe」によって決定づけられていることがわかった。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)

女性一般についても「母との同一化」があるだろうことは、「マザコンとナルコンの対決」にて見た。女性一般と男性の同性愛者は、フロイトの考え方においては、同じ「母との同一化」仲間であり、同じナルシシストなのである。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1916年)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき erotische Bindung があった、ーー母自身の過剰な優しさ Überzärtlichkeit によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。

サードガーの主張するところでは、彼の扱った同性愛患者たちの母親は、しばしば男まさりの女であった。つまり精力的な性格の女たちで、亭主を尻に敷いてしまうような女たちだったという。私も往々同様のことを観察した。しかしそれよりも強い印象をうけたのは、父親が最初からいなかったとか、早くいなくなってしまうかして、その結果、男の子がもっぱら女性の影響 weiblichen Einfluß ばかりを受けたような事例である。もし力強い父親 starken Vaters がいたならば、息子は異なったジェンダー entgegengesetzte Geschlecht の対象選択 Objektwahl という正しい決定 richtige Entscheidung をしていただろうと思われるのである。

さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。

母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧Verdrängungの手中に陥る。子供は自分自身を母の場に置きindem er sich selbst an deren Stelle setzt、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自体性愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象Liebesobjekteをナルシシズムの道 Wege des Narzißmusの途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。

心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。

彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たちから逃げ廻っているのである。Wenn er als Liebhaber Knaben nachzulaufen scheint, so läuft er in Wirklichkeit vor den anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten.

われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に書き換えてvom Weibe empfangene Erregung auf ein männliches Objekt zu überschreiben、彼がかつて同性愛を獲得したあの機制をたえず繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)
男性の同性愛の発生は、多くの事例において、次のようになる。少年は、エディプスコンプレックスの意味において、長いあいだつよく母に固着 Mutter fixiert している。けれども思春期の終了後、ついに母を他の性的対象 Sexualobjekt と取りかえる時期がくる。

そのさい、突然の方向転換が起こる。少年は母を捨てないで verläßt nicht 自分を母と同一化 identifiziertして、彼女の中に自分を転化してwandelt 、いまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母から経験してように愛し慈しむ lieben und pflegen のである。

これは、しばしば起こる過程であって、時に応じて、たしかめることができる。この過程は、突然の方向転換をひきおこす生物学的衝動力 organische Triebkraftや、その動機に関するどんな仮説とも関係なく起こるのである。

この同一化で目立つことは、その豊かさAusgiebigkeitである。自我を、きわめて重要な特徴höchst wichtigen Stückをもったもの、つまり性的性質 Sexualcharakter をもったものに、これまでの対象(母)を手本Vorbildにしてつくりかえる。そのさい対象そのものは放棄されるaufgegeben が、徹底的に放棄されるのか、それとも無意識には保たれているという意味で棄てられるのか、それはここでは議論しない。放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objektの かわりに、その対象を自我に取り入れることIntrojektionは、けっして珍しいことではない。このような過程は小児について直接に観察される。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
同性愛。同性愛の器質的要因を認めたとしても、同性愛が成り立つときの心的過程を研究する努めをまぬかれたことにはならない。すでに無数の症例で確認された定型的過程はこうである。これまで固く母に固着 Mutter fixierteしていた 少年が、思春期をすぎて二三年後に方向転換をして自らを母と同一化 Mutter identifiziertし、そして愛の対象をさがし求めるが、その対象のうちに自分自身を再発見し、かつて母が彼を愛したようにその対象を愛するようになる、ということである。この過程の特徴として、彼が方向転換をした年頃とおなじ年頃の男性の対象をもつことになる。この性愛の条件 Liebesbedingung がふつうは長い年月つづく。

こういう結果になるには、さまざまな要因があって、それがいろいろな強さで作用することが分かっている。まず最初に母への固着 Mutterfixierung があって、これが他の女性対象Weibobjektへ移りゆくのを妨げる。母との同一化 Identifizierung mit der Mutter は、母との対象結合 Objektbindung の終末 Ausgang であるとともに、この最初の対象にたいしてある意味で忠誠をまもることを可能にしている。ついで自己愛的対象選択 narzißtischen Objektwahlの傾向がくるが、これは一般に異性へ向きを変えるよりは手近であるし実現もしやすい。こうなる契機の背後には他のもっと強力なものが隠れているか、または重複している。それは男性の性器をたかく評価することであり、愛の対象にそれのないことを諦められないことである。女性軽視、女性嫌悪、さらに女性憎悪 Die Geringschätzung des Weibes, die Abneigung gegen dasselbe, ja der Abscheu vor ihm も、女性はペニスをもたないという幼時に見つけた発見につながるものである。

後になってわれわれは、同性愛的な対象選択の有力な動機として、父への配慮や父にたいする不安があるのを知った。女性への愛を諦めることは、父(または彼が出会うすべての男性)との競争を避けるという意味があるからである。ペニスがあるという条件Penisbedingungの固執と男との競争の回避と、この二つの動機は去勢コンプレクスにかぞえられよう。母との結びつきMutterbindung――ナルシシズムNarzißmus――去勢不安 Kastrationsangst、このなんら特別のことのない契機を、これまでわれわれは同性愛の心理的な病因のうちに見出してきたが、これに加えて早期のリビドー固着 Fixierung der Libido をもたらす誘惑 Verführung の影響があり、また性愛生活 Liebesleben において受身の役割 passive Rolleを助長する器質的な要因がある。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

※誘惑 Verführung については、母なる「最初の誘惑者 Verführerin」を見よ。


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ラカンの「異性愛」の定義がある。

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

男性一般と女性の同性愛者は女を愛する。女性一般は男を愛しているようにみえるが、実は自らを愛している(ナルシシズム)。すなわち女性一般も女を愛している。

だが男性の同性愛がナルシシズムだとすれば、彼らだけが男を愛しているということになり、男性の同性愛者のみが異性愛者ではない、ということになる。したがってラカン派の観点からは、女性の同性愛者と男性の同性愛者を同列に扱うことはできない、ということになる。

もっとも上に引用したフロイト観点からは、男性の同性愛者は、《母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる》とあったように、真に母への愛の忠誠者は、男性の同性愛者のみということになる。

今、わたくしはロラン・バルトのことを考えている(参照)。

母の病気のあいだ、私は母を看病し、紅茶茶碗よりも飲みやすいので母の気に入っていたお椀を手にもって、お茶を飲ませてやった。母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。(……)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。(……)私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生み出したのだ。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ここでフロイトの記述のなかには、《放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objekt の かわりに、その対象(母)を自我に取り入れること Introjektion》ともあったことを強調しておこう。


バルトには、「喪の日記」カード群がある。1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれたものだ。

母の死の翌日の日付のカードにはこうある。

新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?

その次の日はこうだ。

「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」

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◆付記:中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談・鷲田清一とともに」(2003年)

鷲田 ……先生何度か男性女性のそれぞれの身体の経験の仕方、あるいは感じ方の差異についてお話になっていて、それは実は私流の翻訳の仕方をすると、時代ごとにかなりデフォルメされて出てくる。純然たる生理学的身体っていうものの性差というようなことは、あまりお考えでないように思うんですが。

中井 いや、僕はやはりティレシアスのようなギリシャ神話の人みたいに両方になったことはないですからね、まあ。

鷲田 ディドロが「ダランベールの夢」の中で、レスピナス嬢に語らせているとても面白い言葉があって、「男性は女性の奇形であり、女性は男性の奇形である」、これは面白いなあと。

中井 ただ、私はあまり女性のことを、全く判決文みたいな文章、言葉で理解しないところに女性との繋がりというのはあるような気がします。男性同士でそういう問題はないというのも幻想でしょう。同性愛が長続きしないのはおそらく見えすぎるという幻想、これも幻想でしょうけれども、持ってしまうことでしょうね。つまり「快楽の道具としての身体」については全く鏡面像的なふうになりますから。

鷲田 あまりにもステレオタイプな男女というその時代のイメージを強調したような形になりませんか。

中井 うーむ、どちらかといえば同性愛のほうがステレオタイプではないかと思いますねえ。

鷲田 いや、私が言っているのそれです。同性愛のほうがその時代のステレオタイプな男性、女性像をさらに強化するような形で演じているということは……。

中井 いや、そうと私、必ずしも思いませんが、そうかもしれないとは思いますね。

鷲田 いずれせよ、そういう性差というものが、図式触覚的、エピクリティカルのところでしたか、実はこの一から二十八までのそれぞれにある意味で波及、いろんな形で波及している。

中井 いや、あの性差ですか。

鷲田 はい。

中井 それはあるのでしょうけれども、私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね。

鷲田 謎のままですか?

中井 謎のままです。

鷲田 謎のままで。いやさっきも控え室で話題になっていたのですけれど、摂食障害というのにどうしてこう性の間に非対称性があるのかとか。

中井 他でも非対称性はいろいろありますよね。

鷲田 そうなんです。異常性愛といわれるものはなぜかほとんど男性のものにされたりとか。

中井 レスビアンというのはそんなに問題にされてこなかったでしょうね。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談・鷲田清一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)