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2018年12月15日土曜日

解離と異物

「解離と異物」としたが、現在、主にトラウマと関連付けられて語られるらしい現代精神医学における「解離」概念ーー《解離をもっぱらトラウマとの関連においてとらえる最近の欧米の学会》(参照)ーーについてはわたくしは無知である。ここで記すのは解離という語のおそらく原義に近い内容にかかわる。

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これを repression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」斎藤環/中井久夫/浅田彰)
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

排除(「外に放り投げるVerwerfung」)とは、フロイトにおける原抑圧に関わる用語である。もっともフロイトは抑圧という語を「原抑圧」という意味で使っている場合があるので要注意であるが。とくに1900年の『夢判断』以前のフロイトと晩年のフロイトーー1926年の『制止、症状、不安』にて、抑圧概念を1894年の論文『防衛―神経精神病』で使用した「防衛 Abwehr」概念に戻したい、と言い出した以後のフロイトーーの抑圧とは原抑圧として捉えたほうがいい場合が多い。


さてそのような厄介さはあるが、フロイト・ラカン派においての基本の意味合いは、抑圧(追放・放逐)の場合、追い出されたものは隠喩として象徴界のなかに回帰する。他方、原抑圧(排除)は、象徴界の外に放り投げられて、象徴界(言語秩序)への回帰はなく、現実界において異物のように振る舞う。

自我は堪え難い表象 unerträgliche Vorstellung をその情動 Affekt とともに 排除 verwirftし、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。(フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)


ラカンはフロイトの排除概念を次のように明瞭化した。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒絶 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


排除された異物とは、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》である。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


もう二つの文を中井久夫から引用する。

(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

ーー《プルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作は⋯⋯⋯遅発性の外傷性障害》である(中井久夫「トラウマとその治療経験」)

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーースナップショット、すなわち静止画像である。上に引用したように《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である》とあった。

ここでふたたびラカンを引こう。

隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4、30 Janvier 1957)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。(ラカン、S11、1964、03 Juin 1964)

表象代理の別名は欲動代理である。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ーー欲動代理と欲動固着(リビドー固着)は相同的概念であることは、[固着文献」で見たので繰り返さない。

こうして中井久夫は、解離をめぐって、原抑圧=リビドーの固着を語っているとすることができる。

リビドー固着とは、このところ繰り返しているが、ラカンのボロメオの環を使ってフロイト用語を置き直した次の図においての、自我とエスとの重なり箇所にある。







そして《解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである》とは、「人はみなナルシシストである」で示した変奏図における「異物」の奔入である。




これが、トラウマへのリビドー固着の最も基本的メカニズムだとわたくしは考えている。リビドー固着とは、身体の出来事(トラウマ的出来事)への《原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln》(フロイト、1937)だが、十分には防衛されず残存物ー異物がエスのなかに居残り、ーーこれはフロイトの別の表現なら「身体的なもの」は「心的なもの」に十全には「翻訳」されないということであり、ラカンは異物を《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(1976)と呼んでいるーー、それが反復強迫をもたらすということになる。
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)